日本で初めて渓流魚のゾーニング管理を提案した元東京都水試奥多摩分場の研究者・加藤憲司さん。定年退職後は熊本県人吉市に暮らし、渓流魚の研究を続けていらっしゃいます。加藤さんが自らの過去約40年以上にわたるニジマス研究を振り返る連載、「ニジマスものがたり」(フライの雑誌-第106号〜第112号掲載)を公開します。日本人とニジマスとの知られざる関わりを、当事者として堀りおこす内容は、驚きと発見の連続です。(編集部)
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ニジマスものがたり
─研究者として、釣り人として
加藤憲司(熊本県人吉市在住|元東京都水産試験場主任研究員)
2011年3月、私は36年間勤務した東京都水産試験場(現東京都島しょ農林水産総合センター)を定年退職した。そして現在は、熊本県の人吉市で定年後の気ままな生活を楽しんでいる。しかし、魚に関する研究資料は全て転居先へ運び、今も研究を続けている。
大学時代も含めれば40年以上にわたる研究者人生の中で、ニジマス増養殖に関わる問題はその節々で私の目の前に出現した。
本稿では、日本の渓流におけるニジマスについて、研究者として、また一釣り人として取り組んできた経過を、現場の状況を思い出しながら語ってみたい。そして、今後の釣り場造りに少しでも役立てていただけたら幸いである。
(加藤憲司)
加藤憲司(かとうけんじ)|1951年東京都立川市生まれ。東京水産大学(現東京海洋大学)を卒業と同時に東京都水産試験場奥多摩分場に勤務。サケ・マスなどの研究に従事。小笠原、大島などを経て奥多摩さかな養殖センターで2011年に定年退職。現在は熊本県で研究生活を送る。本誌および各種釣り雑誌へ寄稿多数。本誌第78号にロングインタビューを掲載(下)。著書に、日本で初めて釣り人へ渓流魚のゾーニング管理を提案した『ヤマメ・アマゴその生態と釣り』(つり人社1990年)、『トビウオは何メートル飛べるか』(リベルタ出版2006年)他。
※本記事は、フライの雑誌-第106号(2015・品切)から、フライの雑誌-第112号(2017・品切れ)まで連載されました(全7回)。
ニジマスものがたり 第1回|第2回|第3回|第4回|第5回|第6回|第7回
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第1回
ニジマスの楽園
今から19年ほど前の1996年5月22日、私は熊野川上流、山上川の橋の上に立っていた。平均的な川幅は8メートル程度、流れは比較的緩やかで里川のおもむきがある。東京近郊の釣り人ならば〝多摩川水系支流の養沢川のような川〟をイメージしていただければよい。
眼下は水深1メートルほどの淵になっており、澄んだ流れの中には100尾近い大小のニジマスがゆったりとヒレを動かしていた。穏やかな水面を透かして眺められるニジマスの体長は小さいもので約20センチ、最大の個体は60センチを超えていた。そして、その大半が尺上の大物であった。
長さ約10メートル、幅約7メートルのこの淵におけるニジマスの生息密度は1・25尾/㎡と推測され、まさに釣り堀状態であった。
橋の上から川へ降りると、川岸近くの緩やかな流れの中にはおびただしい数のニジマス稚魚が群れていた。体長は2~4センチ、明らかに昨秋から今春にかけて産卵され、ふ化した稚魚であった。
この川にニジマスが放流されたのは、今から80年ほど遡った昭和初期(1930年代)。放流直後から約800メートルの区間が禁漁区に指定された。その後は放流がまったく行われていないにもかかわらず、ニジマスは天然繁殖を繰り返し、このようなニジマスの楽園が出現していたのである。
中沢さんからの電話
この熊野川上流のニジマス楽園に関する情報を教えてくれたのは、当時本誌『フライの雑誌』を主宰されていた中沢孝さん(故人)であった。以前からニジマスの生態を研究していた私は、自身の研究成果を彼に話したり、誌面上で紹介したりしていた。
1996年の春、私の勤める東京都水産試験場に中沢さんからの電話が入った。
「加藤さん、奈良県の熊野川水系上流域にニジマスが高密度で生息している場所があるそうです。そこにはずいぶん昔に一度だけニジマスが放流されたのですが、以降禁漁区となって今に至っています。そして現在、ものすごい数のニジマスが生息しているというんです。よかったら一度調査していただけませんか」
「そいつはビッグニュースですね。何はさておき駆けつけますので、ぜひ調査をさせて下さい」
受話器を置きながら、これまでの研究者人生において出会った様々なニジマスの姿が私の頭の中をかけ巡っていた。
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解禁日のひらめき
1951(昭和26)年、東京の立川市に生まれた私は、小学校に上がる前から釣りが好きであった。釣りに行く親父にせがんで自転車の荷台に乗せてもらい、近くの多摩川へ出かけるのが何よりも嬉しかった。親父も時折私に釣り竿を持たせ、魚の引きを楽しませてくれた。
小学校へ入ると、自分の自転車に釣り道具を積んで、多摩川でフナやオイカワなどを釣るようになった。当時は週休1日制で、休日は日曜日のみであったが、朝から夕方まで終日釣り場で過ごす釣りキチ少年であった。
高校2年の時、八王子市に住む同級生に誘われて、浅川の上流ではじめてヤマメを釣った。そして、パーマークの鮮やかな魚体と渓谷の美しい自然環境にすっかり魅せられてしまったのである。
釣り好きが高じて、進学先に選んだのは東京水産大学(現東京海洋大学)であった。動機は「好きな魚の生態を研究できるかもしれない」という単純なものであった。
大学に入って2年目の3月下旬。この日は日曜日で多摩川水系支流海沢(うなざわ)の解禁日であった。関東近辺の渓流では、解禁にあわせて多数の養殖ニジマスの成魚が放流される。そして、これを目当てに多くの釣り人が訪れ、押し合いへし合いしながら釣りまくるのである。
こうした早朝の混雑を避けて、私は午後4時頃釣り場に着いた。ほとんどの釣り人はもう帰路についたのであろう。谷に人影はまばらであった。釣り残された体長20センチ前後のニジマスを、ポツリポツリと拾い釣りしながら、私はゆっくりと今シーズンの初竿を楽しんでいた。
「何千尾放流したのかわからないけれど、もうあまり残っていないな…。」
と心の中で呟いたその時であった。突然頭の中でひらめくものがあった。
「まてよ、稚魚も含めれば毎年何千尾、何万尾というニジマスが各地の渓流に放流されているはずだ。なのに、このあたりで、シーズンを通してニジマスの釣れる川は全くない。もちろん管理釣り場は例外として。一般釣り場でニジマスが釣れるのは、解禁後の1週間くらいだけだ。はたしてニジマスは自然繁殖しているのだろうか。」
ニジマスの放流記録を調べる
翌日以降、講義の合間を利用して私は図書館へ通い詰めた。さらには、夏休み中も毎日登校して朝から晩まで入り浸りであった。
4フロアにわたる水産大学図書館の広大な書庫には、北海道から沖縄県にいたる各都道府県水産試験場の報告書が大量に保管されていた。閲覧室とは異なり、エアコンのない、かび臭のただよう当時の書庫に入り、私は手当たり次第に報告書を読みふけったのである。
例えば東京都水産試験場の報告書では、多摩川水系へのニジマス初放流は1918(大正7)年となっている。最初の4年間こそ放流尾数は千尾台であったが、5年目以降は万尾単位となり、11年後の1929年以降は数十万尾のオーダーに達している。
放流魚はいずれも稚魚(体長5センチ程度)であった。
戦後の混乱期における数年間の記録はなかったが、1950(昭和25)年~67(同42)年の18年間には、毎年15万~48万尾、合計440万尾を超えるニジマス稚魚が放流されていた。
しかし、前述したように、多摩川水系の一般釣り場で、解禁直後以外にニジマスの釣れる川は皆無であった。そして多少の違いはあるものの、ニジマスの放流状況は沖縄を除く各都道府県で、東京と同様であった。
「膨大な数のニジマス放流魚は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。」
管理釣り場のニジマス天然魚
そんな疑問を抱きながら水産大学を卒業した私は、1975(昭和50)年4月東京都水産試験場に就職した。辞令には「奥多摩分場勤務を命ずる」とあった。
なんと、私が子どもの頃から親しんできた多摩川のほとりで仕事をすることになったのである。仕事は、マス類の飼育、放流、そして多摩川水系上流域の魚類調査など多岐にわたっていた。すべてが初めての経験であったが仕事は楽しかった。日々新しい体験を積み上げながら、私の飼育や調査に関する技術も次第に向上していった。
しかし、日々の忙しい仕事に追われながらも「なぜニジマスは生き残らないのだろう。」という大学時代の疑問は心の奥に小さく息づいていた。
奥多摩分場に勤めはじめて5年目の1980(昭和55)年4月1日。この日は、前述した多摩川水系支流養沢川にある、養沢毛鉤専用釣場の解禁日(当時)であった。この釣り場で養殖ヤマメの放流実験を始めてもう3年になる。
昨年秋の禁漁後に脂ビレを切って放流した標識ヤマメが、釣り人によって次々と届けられる。私は1尾ずつ体長・体重を測定し、野帳に記録していた。そしてその最中に、釣り場監視員のFさんが声をかけてきた。
「加藤さん、ニジマスとヤマメのあいのこだよ。」
ベテラン釣り師でもあるFさんの持ってきてくれた体長15センチほどの魚は確かに変わっていた。銀白色の体側には、青灰色のパーマークがくっきりと並んでおり、側線に沿ってピンクのストライプが鮮やかである。各ヒレの形は美しく伸びやかで、腹ビレや臀ビレ、そして尾ビレの下端はオレンジ色に輝いていた。
一見すると、ヤマメと間違っても不思議ではない。しかし顔つきは鼻先がやや丸みを帯びていた。さらには、背ビレに多数の小黒斑点が散りばめられている。これらはニジマスの特徴である。
ニジマスとヤマメを判別する最大の特徴は、上アゴの歯並びである。問題の魚の口を開けて上アゴの歯並びを観察した私は、Fさんにこの魚が確実にニジマスであることを告げた。
そして尋ねた。
「Fさん、こんな魚はよく釣れるんですか。」
「時々釣れるね。」
「だって、こんなに小さいニジマスは放流していないじゃないですか。」
「そういえば、秋にはもっと小さいヤツが釣れるな。」
「えっ、ニジマスの稚魚が釣れるんですか。」
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第二回へつづく
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島崎憲司郎さんの『水生昆虫アルバム A FLY FISHER’S VIEW』は各所で絶賛されてきた超ロングセラーの古典です。このところ突出して出荷数が伸びています。