【公開記事】川辺川ダム計画に異議あり 球磨川大水害その後 ── 地元住民から(加藤憲司)『フライの雑誌』第122号掲載

12年前、蒲島知事自らが「ダムによらない治水対策を行う」として白紙撤回した川辺川ダム計画が、ここにきて一気に再浮上したのである。しかしこんな乱暴かつ拙速な話はない。ダム建設を推進する側の国交省が作成した資料を唯一の拠り所として、ダムの建設に向けて奔走する。どう考えても無茶な話である。

球磨川大水害から見えたもの 加藤憲司|フライの雑誌-第121号)

いったんは白紙撤回された「川辺川ダム」が復活させられようとしています。その背景に何があったのか。地元に暮らす元東京都水産試験場主任研究員の加藤憲司さんのレポートです。

(フライの雑誌-編集部)

川辺川ダム計画に異議あり
球磨川大水害その後 ── 地元住民から

加藤憲司 熊本県人吉市在住・元東京都水産試験場主任研究員

『フライの雑誌』第122号掲載(2021年6月発行)

行きかうダンプカー

2020年7月4日の球磨川大水害から9ヶ月あまりが経過した。いま球磨川水系流域の街道には、多数の大型ダンプカーが土埃を巻き上げ、頻繁に行きかっている。

その荷台に積まれているのは、球磨川水系の本支流で掘削された大量の土砂である。膨大な運搬土砂に対応するためであろう。ダンプの中には、熊本ナンバーの他に多数の他県ナンバーが混じっている。

大水害のあと、急きょ始められた堆積土砂の撤去工事は、現在、水系のあらゆる場所で大規模に行われている。工事では、まずブルドーザーが川底の砂利を寄せ集め、流れの筋を変える。

その後、水のなくなった河原にはパワーショベルが入って河床を掘削する。そしてその砂利を、列をなして待機するダンプカーに次々と積み込んでいくのである。

こうした土砂撤去など一連の作業は「河床整正」と呼ばれる。その名のとおり作業の最終局面では、ブルドーザーで川底を真っ平らに整地する。川の水はこの上を、広く、薄くチョロチョロと流れるだけである。

アユの鋭いアタリに胸を躍らせた急瀬も、大ヤマメとやりとりした深い淵も姿を消してしまう。

魚をはじめ、鳥や虫、草木などの生きものたちには本当に申し訳ない。しかし、人間も生きていかねばならない。今後、出水の繰り返しによって、何年か後に瀬と淵が復活し、生きものたちの住みかが戻ってくるのを待つばかりである。

2008年の蒲島郁夫熊本県知事による「川辺川ダム計画の白紙撤回」から昨年の大水害まで12年。この間、球磨川水系における堆積土砂の撤去工事はほとんど行われてこなかった。

水害を心配する流域住民たちの再三にわたる撤去要請にもかかわらずである。

洪水に対する国土交通省と熊本県のこうした無為・無策を糊塗するかのように、土砂撤去の工事ラッシュが、いま急ピッチで進行している。

撤去された土砂を運搬中の大型ダンプカー

球磨川水系川辺川見取り図

尺アユの球磨川

支流の川辺川を含む球磨川は、標高約1400~1700mの九州山地に水源を発し、西流して不知火海に注ぐ熊本県最大の河川である(図)。

本流の流程は115㎞、川辺川は62㎞。水量豊富で、最上川、富士川と並んで日本三大急流と呼ばれている。その流域には美しい自然や田園が広がっており、豊かな実りをもたらしてくれる。

また、毎年お盆以降に釣れだす「尺アユ」はつとに名高く、全国のアユ師を魅了してやまない。ヤマメも大型に成長し、40㎝クラスが竿先を絞り込んでくれる。しかし一方で、この豊富な水は、たび重なる洪水も引きおこしてきた。

では「川辺川ダム問題」は、そもそもどんな経緯を経て現在に至ったのであろう。

九州以外ではあまり報道されることのないこの問題について、全国の釣り人に知っていただくべく、その概略について述べていきたい。この問題の経緯については、10年以上にわたり、現場で緻密な取材を続けた高橋ユリカ氏の大著『川辺川ダムはいらない』(岩波書店:2009年刊)に詳しい。

本報告では、同書からほんの、ほんの一部をかいつまんで紹介させていただく。

河床の堆積土砂を掘るパワーショベル

川辺川ダム計画の発表

いまから56年前の1965年、人吉市をはじめとする球磨川流域は、戦後最大とされる大水害(昨年7月の水害はこれを大きく上回るのだが)に襲われた。そしてその翌年、建設省(現・国交省)は川辺川ダムの建設計画を発表する。

球磨川最大の支流、川辺川の相良・五木両村の境界付近に、堤高107・5m、総貯水量1億3300万㎥の巨大ダムを建設するというのだ。ちなみに1959年、球磨川本流の水上村に完成した市房ダムが、堤高78・5m、総貯水量4020万㎥なので、その大きさのほどがわかるであろう。

この計画発表にあたって建設省は、地元の五木村や人吉市などに相談することもなく、熊本県すらその内容を知らされていなかったという。当時、国と地方の力関係は対等というにはほど遠く、国の決定は半ば一方的に地方へと下されたのである。まさに上意下達。この「お上に逆らうな」という風潮は、現在に至るまで連綿と続いている。

それでも工事現場となり、水没の対象となる五木、相良の両村議会は即座に反対を表明する。これが、2008年の蒲島知事による「白紙撤回」まで、その後42年間にわたるダム反対運動の第一幕であった。

ゆれる子守唄の里、五木

計画発表の翌1967年には「川辺川ダム工事事務所」が開設。官・民で構成される「五木村ダム対策委員会」も立ち上げられる。当然のことながら、小さな集落の中で、村民の意見は促進・反対に分かれて対立を生じていく。

1971年には建設省が「川辺川ダム基本計画(総事業費約350億円、工期1967~81年度)」を発表。翌72年には、同村で国の現地立ち入り調査が始まるが、ここで重大な文書の改ざんが発覚する。

調査にあたっては、事前に「村民に通達」されることになっていたが、これが「村に通達」と書き換えられていたのだ。森友学園問題での財務省の公文書改ざんに通じる悪習が、当時も平然と行われていたのである。

76年には熊本県議会が「川辺川ダム基本計画」に同意する。反対派は猛然と反発したがその願いは叶わない。

79年、澤田一精熊本県知事が五木村を訪問。ダム建設への協力を要請する。これを機に反対派も和解交渉に臨むことになる。

堆積土砂を大型ダンプカーに積み込む

下流の人吉では

ダム計画の発表以降この間、下流の人吉市でも動きがあった。1970年、人吉市議会は「球磨川と自然を守るための宣言」を決議し、「球磨川の水量確保に関する決議」を表明する。宣言は次のように言う。

よい環境の中で生活することは、人間の基本的な権利である。にもかかわらず、今日大気の汚染、水質の汚濁、騒音、振動、それに食品、交通等による自然と環境破壊は、大都市周辺の過密地帯からしだいに過疎地帯までひろがり、あらゆる人々の生活がおびやかされようとしている。私達が自然の美しさと恩恵を自慢してきた人吉周辺も、その例外ではない。(中略)こうした環境破壊から貴重な自然の財産を守ることは現在の私達自身のためばかりでなく子孫に対する道義である(後略)。

あきらかにダム建設への疑問を投げかける内容であった。

市民団体の発足と発展

1981年、五木村では反対派の一団体を除く二団体が損失補償基準に調印した。翌年、五木村議会は「ダム反対決議」を解除、「本体工事を除くダム建設工事」に全面合意する。

1993年、人吉市では一つの市民団体が誕生する。その名は「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」(以下「手渡す会」)。以降現在まで、一貫して川辺川ダム建設に反対してきた住民団体である。

当時、長良川河口堰問題が、マスコミを通じて日本全国に認識されるようになる。そして同年、日本各地のダム建設反対運動が手を結ぶべく「水源開発問題全国連絡会」(以下「水源連)が結成される。

おりしも自社さきがけ政権時代となり、建設大臣に社会党の野坂浩賢議員が就任した。「水源連」のメンバーとともに、「手渡す会」の会員も、野坂大臣に面会する。建設大臣がダム反対の市民団体と会ったり、事業の問題点を認めるなど、いまの日本ではあり得ないことが現実に起きていたのである。

93年に人吉市で開かれたダム反対集会は約700名が参加する空前の大集会となった。人吉市議会に提出した反対署名は95年までに約6万名、うち人吉市民は1万9000名弱、有権者数3万人(当時)の過半数に達した。

にもかかわらず翌’94年、人吉市議会では反対派と推進派の激しいやり取りの末、結果的に市民の署名を無視する形で議員提案の「ダム建設促進」の意見書が可決され、推進への動きが決定的となった。

1970年当時、あれほど格調高く自然環境の保全を謳いあげた市議会は変貌した。

湯水のごとく血税が

1996年、ダム反対の市民運動は、下流の八代市(美しい球磨川を守る市民の会)や熊本市内(子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会)へも広がっていく。

しかし同年五木村と相良村が「ダム本体の着工に伴う協定書」に調印。人吉市と八代市では「川辺川ダム事業説明会」が開催されたが、建設省の一方的な説明に終始し、市民からの疑問に答えることはなかった。

翌97年、改正河川法が成立。はじめて条文に「住民参加」と「環境への配慮」が加えられる。そして98年、建設省は川辺川ダム基本計画を変更する。総事業費約2650億円、工期1967~2008年度、当初計画予算の実に8倍である。

まさに「湯水のごとく」血税が浪費されようとしていた。

漁師たちの闘い

1999年、球磨川漁業協同組合(以下「漁協」)の三室勇組合長に、川辺川工事事務所から、川辺川ダムの建設に伴う「補償交渉締結」の申し入れがあった。しかし、組合長はキッパリとこれを拒否する。

そして、同年開催の漁協総代会(流域各地区代表約100名で構成)ではおよそ半数が反対して「川辺川ダム建設絶対反対」が確認された。しかしながら漁協内には、補償金など利権目当ての推進派組合員も少なくなかった。

その後まもなく組合長が交代し、これを機に「絶対反対」の態度は軟化していく。推進派から反対派への切り崩し工作も行われた。建設関係に勤める組合員の子弟の「仕事を辞めさせるぞ」などの脅しが頻繁にあったともいう。

その他にも数多くの理不尽な工作が行われたが、反対派は「川辺川・球磨川を守る漁民有志の会」を立ち上げて対抗した。そして、建設省から提示された漁協への補償金額は16億5200万円、組合員一人当たり50万円というものであった。

こうしたなか2001年2月、漁協総代会が開かれる。議長解任など、様々なせめぎ合いを経て、59対40で「補償交渉に応じない」と決定した。なおこの年、省庁の組織改正があり、建設省は国土交通省と名称を変える。

漁協内では、「総代会」での決定を、その後に行われる「総会」で覆すべく様々な工作が行われる。まずはダム推進派の組合員数を増やそうと、建設業者の家族など、漁を行わないものが数十人も組合に加入した。

そして同年11月、漁協臨時総会。人吉市の会場には組合員と応援団がつめかける。推進派の応援団は建設業者などに動員された人々。一方の反対派応援団は市民団体の面々。

昼近くに開会した総会が終了したのは、翌日の午前1時近く。漁業補償案は賛成802、反対620、必要な三分の二の賛成が得られず否決された。総代会に続き総会でも「ダム反対」が決定されたのである。なお、その後の熊本日日新聞の世論調査では、ダム推進が19・4%、反対が54%(球磨川流域では59%)だった。

河床整正後の状況

潮谷知事の登場

「総代会」、「総会」と、球磨川漁協で二度にわたり「ダム反対」の意思が示された前年。すなわち2000年には、福島譲二熊本県知事(自民党推薦:ダム推進派)が急逝した。

後任を選ぶ知事選では、副知事だった潮谷義子氏が自民党推薦で当選する。潮谷知事は、民間で長く福祉の現場に携わっており、「自然の中にある『命への畏敬』は福祉の原点」という考えの持ちぬしであった。

2001年、潮谷知事は「川辺川ダムを考える住民大集会」と銘打った公開討論会を主催する。12月9日、会場となった相良村体育館には約3000人の参加者がつめかけた。

午後1時に始まった集会の冒頭、潮谷知事は「国はダム建設がもっとも妥当な判断であるという。その大義について県民に説明する義務があります。この会はガス抜きでも帳面消しでもありません」と述べ、国交省が説明責任を果たすよう求めた。

反対派の登壇者が大勢の市民の前で、国交省ダム案への反論を堂々と展開する。こうした集会の開催は全国初であり、それ以降も開かれたことがないという。

議論は、終了予定の5時になってもまとまらず、その後始まった一般発言も、7時を回っても途切れそうになかった。こうした中で、ダム建設促進派のリーダーが「いくら議論を続けても不毛。もう帰るぞ」と会場に呼びかけた。そして、これに応じた促進派が席を立とうとしたその時、潮谷知事が立ち上がり、「まだ話し合いは途中です。お席にお戻り下さい。私は最後まで話を聞きたいと思います」と言った。

騒然としていた会場が、瞬間、凜とした空気に変わったという。長年「ダムはいらない」と言い続けてきた住民からの訴えに、公平に耳を傾けてくれた初めての知事であった。

この集会は、第2回から国交省の主催となり、2003年まで9回開催される。1997年の改正河川法により、住民参加が義務づけられたことを受けての措置であった。

この討論集会でダム反対派は必要なデータの公開を国交省に求める。何しろ、肝心の熊本県庁にはデータがないという。県庁は終始一貫して、反対派住民と国交省の議論に下駄を預ける格好であり、議論に加わってこなかったのである。

反対派は国交省に情報公開手続きを行った。しかし、開示回答は待ちに待たされる。そしてやっと出てきた資料の多くは、黒塗りのまさに〝ノリ弁〟だったのである。

ダム白紙撤回へ

球磨川漁協の「総代会」、「総会」で二度にわたり補償交渉を拒否された国交省は、いよいよ最後の手段にうってでる。2001年12月、熊本県収用委員会に対して「漁業権の強制収用」を申請したのである。

02年2月、第1回収用委員会が開催される。委員会の採決は通常、申請後7ヶ月~1年で出されるというが、以降3年8ヶ月にもおよぶ長丁場となる。そして05年8月、委員会は国交省に「強制収用の申請を取り下げるよう」勧告する。「取り下げなければ申請を却下する」という。全国初の事例であった。

申請が却下されれば、川辺川ダム計画の事業認定は無効となる。9月15日、国交省は勧告に従って申請を取り下げる。川辺川ダム計画は白紙に戻ったかのように見えた。

ところが国交省は、何事もなかったかのように「川辺川ダム」建設計画を前提とする「球磨川水系河川整備基本方針」の策定に動きだす。2006年4月、第1回「同基本方針検討小委員会」。以後07年3月まで11回開催される。「地元の意見を取り入れるように」という潮谷知事の再三にわたる要求を顧みることもなく、「基本方針案」は採択される。

こうした中で2006年11月、矢上雅義相良村村長および村議会がダム反対を表明する。

潮谷知事の引退後に行われた08年春の熊本県知事選では、蒲島郁夫氏が当選する。新知事は自らの諮問委員会「川辺川ダムに関する有識者会議」を立ち上げ、半年足らずの間に9回の審議を重ねたが、結論は「ダム建設容認」だった。

一方、川辺川ダム建設予定地のある相良村では、同年8月に徳田正臣村長が「川辺川ダム反対」を、9月にはダム建設最大の「受益地」であるはずの人吉市で、田中信孝市長が「川辺川ダム白紙撤回」を表明する。

これらが2008年9月11日の蒲島知事による「ダム白紙撤回」表明へとつながっていく。

ダム撤回を反故にした蒲島知事

昨2020年7月の球磨川豪雨災害から4ヶ月ほどたった11月、蒲島知事は「命も清流も守る」として、流水型の川辺川ダム建設を国に求めると表明した。

2008年に自らが行った「ダム計画白紙撤回」を反故にしたのである。

流水型ダムは、ダム壁の下部に穴が空いている。川の水はこの穴から下流へ流れるため、普段は水を溜めない。洪水時にのみ湛水するので環境に優しいと国交省はいう。日本には現在5ヶ所に設置されているが、いずれも運用開始から日が浅く、効果も問題点もよくわかっていない。

このうち最大規模の益田川ダム(島根県)と川辺川ダムを比べると、堤高48m:108m、湛水面積0・54㎢:3・91㎢、総貯水量675万㎥:1億3300万㎥と、ケタ違いの大きさであることがわかる。つまり、ここまで巨大な流水型ダムは川辺川ダムが初めての事例なのである。

環境アセスを拒否する国交省

当然のことながら、建設開始前には詳細な環境アセスメントが実施されなければならない。ところが昨年11月、国交大臣が「全面的に法アセス実施の方向で考えたい」と述べていたにもかかわらず、国交省は「環境アセス実施は法の対象外」と言いだしたのだ。

その理由を聞くと、まさに開いた口が塞がらない。いわく「川辺川ダム計画は1966年に策定されているので、1999年に施行された環境アセスメント法の対象外である」と。

半世紀以上前の川辺川ダム計画で提案された「貯留型ダム」は、特定多目的ダム法に基づいている。一方、今回計画の「流水型ダム」の根拠となるのは河川法である。

「異なる根拠法で新たに計画する場合、一連のアセス手続きは必要」との環境省の見解にもかかわらず、アセスの必要がないと言い張る厚顔無恥ぶり。〈桜を見る会〉問題で、全ての責任を秘書に押しつけ、118回におよぶウソの答弁を国会で繰り返した某国の元首相とウリふたつではないか。

現在、地元の市民団体は、流水型ダム計画に対して数多くの問題点を指摘、公開質問状の提出など様々な運動を活発に展開している。「手渡す会」のメンバーである岐部明廣、田副雄一の両氏は、『奇跡の二つの吊り橋』(2020年11月)、『尺鮎の泪』(2021年1月)を刊行して、流水型ダム問題を、ていねいに、わかりやすく解説している。

ぜひご一読されることを願ってやまない。

『尺鮎の泪』と『奇跡の二つの吊り橋』

加藤憲司(かとうけんじ) 1951年東京都生まれ。東京都水産試験場奥多摩分場でサケ・マスなどの研究に従事。現在は熊本県で研究生活を送る。日本で初めて渓流魚のゾーニング管理を提案した『ヤマメ・アマゴその生態と釣り』(つり人社)、『トビウオは何メートル飛べるか』(リベルタ出版)ほか著書多数。上写真は『フライの雑誌』第78号掲載のロングインタビューから。

『フライの雑誌』第122号掲載

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