「親よりえらくならなくちゃ、いけないよ。」

自分の成人式にあたる日には、競艇場で警備員のバイトをやっていたか、多摩川の日野橋の下でクチボソを釣っていたはずだ。卒業式のときも同様の行動をとった。世間さまでフォーマル系のイベントがあるとき、わたしはそうして必ず逃げた。逃げても、バイトか釣りかどちらかくらいしか選択肢がなかったところに、二十代の自分の切なさと愛しさと心弱さがある。忘れてしまいたいことやどうしようもない哀しさに包まれたとき、わたしはクチボソを釣るのです。

「にぶんのいち成人式」という言葉を聞いたことがなかった。最近はわりとメジャーな小学生セレモニーであるようだ。二十歳の半分、十歳になったことをお祝いしましょうという趣旨で、十歳だから、小学校の四年生が対象だ。PTAが企画するケースがおおいみたい。PTAが祝うのなら、うちの子どももようやく十歳まで大きくなった、やれやれ、という親の自分たちへの〝お疲れ会〟の意味なのだろう。子どもを祝うのじゃなくて、親を祝う会だ。そもそも子どもはセレモニーを選べない。

考えてみれば行政がひらく成人式は、あれは何の目的でやっているのだろう。新成人を市役所ホールかなにかに集めて、これであなた方も立派な課税対象です、さあ保険税払え、市民税払え、と市長に訓示を垂れられる場か。新成人だって荒れたくもなる。EXILEの子分みたいのが徒党を組んで袴はいて酒呑んで登壇して市長からマイク奪って「いぇーい」とかいってVサインやるんでしょ。そんな式出なけりゃいいのに。税金取られにいくようなものだ。

来月の始めに「にぶんのいち成人式」だから忘れないでおいてね、と言われたのは先月のことだ。三月の始めはむろん渓流解禁どストライクなので、にぶんのいち成人式どころじゃないよっ、というのが釣り師としての本音だ。でも本音を口に出すと色々面倒なことになるということを、おっさんは今までの人生で学んできた。だから「わかりました」とだけ素直に答えた。小さなガマンが大きな満足を得るための寄せ餌になることも、おっさんは今までの人生で知った。

にぶんのいち成人式当日の平日、わたしは妻と連れ立って、会場であるがっこうの体育館へ向かった。なんだかんだいって、わたしが平日に子どもの学校行事に出る率は高い。まっとうな仕事についているよそんちのお父さんは、平日の学校行事にはなかなか出られない。その点、始めからついでに生きているようなわたしは、呼ばれればほいほいと出かける。子どものクラスの同級生から完全に顔を覚えられているお父さんはクラスの中でわたしだけっぽい。

先週のひるまも、なにかの用事で学校へ行った。用事がおわってひまだったので、校庭にいたうちの子どもを含む四年生3人と五年生1人に提案して、バスケの2on3をやった。「2on3やろうぜ」と声をかけたのはわたしだ。もちろんわたしはバスケなんて、ときどきBS放送でやっているのを見るくらいしか知らない。そしたらわたしが組んだ五年生が「おれバスケ部!」だとかでそこそこ上手だったのだが、四年生3人の内のひとりがそれを上回ってNBA級で、わたしをひょひょいと抜かす。ついくやしくて体当たりしてボールを奪ったりして、「あれはないよね。」と、あとで四年生組のうちの子どもに呆れられた。そのとても上手な四年生と五年生は、じつは年子の兄弟なんだそうだ。あとから教えられて、お前そういう情報は現場で言え、とうちの子どもを叱った。なんとなくその場で知っていたかった。ここらへんのおっさんの微妙な機微はまだ幼いきみにはわかるまい。

さて「にぶんのいち成人式」である。パイプイスが整列した会場の席のいちばん後ろに座ったが、なんとなく落ち着かない。やっぱりフォーマルぽい場は苦手だ。そこでとなりに座っている妻に、茶化す感じで、「やっぱりあれかな、にぶんのいちでも荒れる成人式?」と振ってみたら、「しッ」と口に指をあてられた。すいません。会場の飾り付け、式次第とか、きちんとしたプログラムもできていて、先生方とPTA役員の方のご準備の並々ならぬご苦労がつたわってくる。〝親のお疲れ会だろ〟だなんて思ってごめんなさい。悪うございました。

プログラム一番、四年生全員で合唱。どこかで聞いた曲だ。「これあれだろ、なんとかアンジェリカっていう…。」「はいはい。アンジェラ・アキね。」という会話を小声で妻と交わした。みんながんばって唄っていた。うちの子は40数人いる子どもらの、中央ど真ん中に配置されていた。目立つ。いいね。隣のクラスの若い男の先生がピアノで伴奏して、途中つっかえたりもしたけれど、がんばって弾いていた。この先生はたしかギターの名手だったので、あとで子どもに「先生ピアノじゃなくてギターの方がよかったんじゃね?」と聞いてみたら「うん、みんなそう言ってた。でも先生がんばってたよ。」とのことだった。なるほど、苦手なピアノでもいっしょうけんめいがんばる先生の背中を児童に見せようという高度な教育的配慮だったか。また余計なことを言いました。バブル世代のおっさんだから許してください。

プログラム二番、「四年生でできるようになったこと」。チームごとに「できるようになったこと」を発表する。それぞれ子どもらが四五人ずつチームを組んで、「できるようになったこと」を、体育館に集まった観衆の親御さんの皆さんの前で披露する。「縄跳び」チーム、「跳び箱」チーム、「大縄跳び」チーム、「マット運動」チームと続いた。まあやることはそのまんまで、縄跳びしたり、マット運動したり、跳び箱とんだりする。上手な子は上手だし、そうでもない子はそれなりだ。上手といっても、オリンピックに出そうなレベルの子はいない。まあ、ごくふつうの小学四年生だ。

出し物は淡々とつづいていった。当然と言えば当然だが、最初の方は親の反応がいまひとつなのが気になった。そこでわたしは、ひときわ大きな拍手と歓声と、「よっし、よくやった!」とかの、かけ声をくらわせてやった。プロレス会場できたえてるから、わたしはそういうのには慣れているのだ。前の方の親御さんたちがふりむいて笑ってくれたからよかった。あとでうちの子いわく「パパ目立ってたよ。」とのこと。盛り上げないとね。

「リコーダー」チームでは〝季節外れですが〟という前説つきで「ジングルベル」を演奏した。そりゃたしかに季節外れだわいと、前説の時点でゲラゲラ笑ったら、妻にすこし怒られた。「バスケ」チームでは女子四五人が入れ替わり立ち替わりドリブルシュートする。さいしょは連続して入っていたのだが、途中だれかが失敗したら、そこから連続してみんなが失敗するようになり、最後はグダグダになって終わった。ああ人生ってそういうものだよね、と思ったりした。

この「できるようになったこと」は、要は芸事の発表会みたいなものだ。でも子どもらの中には、芸事が不得手な子もいるにちがいない。わたし自身の子どものころを思い出すと、「リコーダー」だめ「縄跳び」「跳び箱」もちろんだめ、「マット運動」はでんぐり返しもできなかった。絵も描けない、詩才もない、歌舞音曲一切だめなわたしは、今日の「にぶんのいち成人式」で、いったい何を披露すればいいのだろう。芸の披露を求められてもいないのにおっさんは頭を抱えた。

はっと気づいた。ではうちの子どもはなにを披露するのだろう。うちの子は自慢じゃないが、気持ちはやさしいが凡庸と中庸を足して二で割ったような子だ。おそらく芸事方面は子どもの頃のわたしと同じレベルで不得手だろう。ひとさまにお見せできる芸をひそかに隠し持っているとも思えない。なんだか急にどきどきしてきた。と思っている内に、「都道府県」チームの五人組の発表が始まって、その中にうちの子が混ざっていた。

「都道府県」チームは、都道府県の白地図を描いたプレートを掲げて、その絵の都道府県名をあてるのが「芸」だった。「東京都です」「正解です」「北海道です」「正解です」「京都府です」「正解です」というだけのやりとりが、延々と47都道府県分つづいていった。うちの子は九州地区担当だった。「鹿児島県です」「正解です」「佐賀県です」「正解です」「宮崎県です」「正解です」というように、間違えることもなく、きわめてシンプルに、ただ淡々と答えていた。観ている方も淡々と拍手をしていた。ひじょうに淡々とした芸であった。一つ分かったことは、ああやっぱりうちの子は文科系だったのかと。体育系はだめだったんだねと。そりゃそうだよね、うちの子だからね。都道府県名をあてるくらいならわたしにでもできる。わたしが十歳だったらやっぱり「都道府県」チームだったのかなと思った。

プログラム三番、「将来の夢」。体育館のステージに四年生全員が並んで、ひとりずつ「将来の夢」を15秒くらいで発表していく趣向だ。うちはいなかの学校なので一学年が50人もいないためにこういうことができる。一学年300人とかのマンモス校だったら、ひとりずつ喋らせるだけで年寄りになってしまう。

前列右端の子どもから、それぞれの「夢」を発表していった。「将来の夢は、トリマーです」、「将来の夢は、小説家です」、「将来の夢は、生物学者です」、「将来の夢は、保育士さんです」、「将来の夢は、テニスプレーヤーです」、「将来の夢は、家具屋さんです」、「将来の夢は、デザイナーです」、「将来の夢は、学校の先生です」、などなど、なかなかバリエーション豊かな「夢」がつづいてすばらしい。「夢」でなりたい職業を言うと決まっているのか、みんな、将来自分がつきたい職種について語っていた。なるほど、すでにきびしい就職戦線は始まっているのだな。とくに女子は、具体的で実現可能な「夢」がおおかったのが印象的だった。

「将来の夢は、テーマパークのキャストです」と言った女子がいて、なぜはっきり「ディズニーランドの、」と言わないのかと思った。固有名詞を言っちゃうとディズニーから使用料でも請求されるのだろうか。あと、ヨーロッパのサッカーチームのユニフォームを着た少年が数人いて、きみらの夢はあきらかに「プロサッカー選手です」だろうとにらんだら、やっぱり「夢はプロサッカー選手です、日本代表になって、、、」とみんな同じことを言った。女子の「夢」の方が生々しい。

そういうなかで、「将来の夢は、釣り名人です。」と寝ぼけたことを言った子どもがいた。「理由は、お父さんが釣り名人だからです。もっとお父さんに釣りを教えてもらって、ぼくも釣り名人になって、色々な魚を釣りたいと思います。」。それがうちの子だった。彼は二つ、大きな誤解をしているのだが、まず第一に、そもそも釣り名人という職業はありません。第二に、あなたのお父さんは、釣り名人でもなんでもありません。むしろ分類すると、たいへんなへぼ釣り師です。お父さんはなんだかんだとそれなりに色々あって、今はたまたまこういう風に、釣り雑誌や釣り関係の本をつくるしごとをしているだけなのです。くわしくはパパの書いた『葛西善蔵と釣りがしたい』を読んでください。Amazonのリンクを張っておきました。

きみはこないだ、「パパはいつもパソコンやってる。しごとはなんなの?」って言った。パパのしごとは本をつくって売ることだよと言ったら「本屋?」。そうじゃないけど似てるけど。「わかんないなあ」。わかんないよねえ、本当はパパにも分かっていないんだから仕方ない。ところできみは、がっこうでは「パパ」じゃなくて「お父さん」て言うんですね。

おおむかし、わたしが下宿していた東高円寺のアパートのすぐそばに、個人店のクリーニング屋さんがあった。会社勤めだったわたしはワイシャツなどをお願いするのでそこへ通っていた。クリーニング屋のお母さんは、わたしが就職したての一人暮らしだと知ると、カウンターから身を乗り出してきて、「あんた、親よりえらくならなくちゃ、いけないよ。親なんてね、子どもが自分より、えらくなるのがいちばんの楽しみなんだから。いなかのあんたの親御さんもね、きっとあんたが親よりえらくなるのを、、、」と毎回毎回、説教してきた。その時は閉口していたが、20年以上たった今でも「親よりえらくならなくちゃ、いけないよ。」のフレーズが頭から離れないのだから、クリーニング屋のお母さんの言うことには理屈と迫力があったのだ。「親よりえらくならなくちゃ、いけないよ」。そのとおりですねといまは思う。

いいかよくきけ。きみは釣り名人になりたいそうだが、ざんねんなお知らせだけれど、パパにはきみに教える釣りの腕なんかない。だからきみはじぶんで色々と覚えていかなくちゃいけない。きみもときどき一緒に遊んでもらって、知っているように、パパの周りには本物の釣り名人がたくさんいる。彼らの技を盗みなさい。でも彼らみたいな釣りまみれのぐちょぐちょ人生を目指せとは言いません。そこのところはぜったいに誤解しないでくださいと、必要以上に強調しておきます。なんの芸もない、どっちつかずのパパが、きみに言ってあげられることは、「親よりえらくならなくちゃ、いけないよ。」ということくらいです。せいぜい長生きして粘り勝ちしてください。あとそれから、もうすこしのあいだは「お父さん」じゃなくて「パパ」でいいんじゃないかと、パパは思います。

ぜんぶのプログラムが終わって、がっこうからふらふら帰る帰り道、妻がわたしに「お父さんみたいな釣り名人になるって言われて、うれしかったでしょ。」と、からかうように言ってきた。思わず、いや、あの、だから、そもそも釣り名人という職業はないし…、と言い訳を始めたが、うれしくなかったといえばうそになる。そこのところを見抜き見抜かれているのがわかっていて、ああだこうだと、いつもとかわりばえしない会話をかさねる夫婦の時間は、人情ものの映画のラストシーンみたいで、それはそれでわるくなかった。そこらへんを肯定的に客観できるのは、図々しくなったおっさん化のいいところだ。EXILEの子分みたいな連中にはまだまだ到達できない笠智衆の境地と言えよう。

で、そうこうしているうちに、わたしはなんだか急速にこころがさびしくなってきた。自分の子どもが大きくなるということは、もちろんうれしいことだ。でもそれは、まちがいなく自分の残りの時間が少なくなったということでもある。子どもより親が大事と思いたい。だから歩きながら、かたわらの妻に言った。

「あーあ、おれなんかもうとっくに、にぶんのよん成人式すぎちゃったんだぜ。どうすればいい?」
「にぶんのよん? 50歳?」

それ、計算まちがってると思います。

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春はガガンボ号 ガガンボは裏切らない。 頼れる一本の効きどこ、使いどこ

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