フライの雑誌-第123号(2021)から、〈水辺のアルバム19〉元気な島の元気な漁村(水口憲哉)を公開します。
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水辺のアルバム20
元気な島の元気な漁村
利島、御蔵島、渡嘉敷島をめぐって
水口憲哉
(東京海洋大学名誉教授・資源維持研究所主宰)
フライの雑誌-第123号(2021年発行)掲載
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三村に共通する第一の特長は、漁業地区の子供のにぎわいが、
村全体の子供のにぎわいより大きいということである。
これまで何回か取り上げて来た、〈元気な漁村〉シリーズとして今回は、東京都伊豆七島の利島村、御蔵島村、沖縄県慶良間諸島の渡嘉敷村の三島について考えてみる。
渡嘉敷村については、一九〇八年一月、間切・島・村が村と字に名称変更し、四月に沖縄県島嶼町村制(特別制)が施行され村となった。また、利島、神津、三宅、御蔵については一九二三年、内務省令「沖縄県間切島並東京府伊豆七島及小笠原島ニ於ケル名称及区域ノ変更等ニ関スル件」が適用され、島嶼町村制が施行され村となる。これはそれぞれの村史(御蔵島は島史)による。
以降現在までこれらの島では一〇〇年近く村制を施行しており、一島一村一漁協の島々である。北緯三四度よりやや北に位置する利島からやや南の御蔵島、そして八度南下した渡嘉敷島まで、以降三島を数字等で比較する際には常にこの順番で表記する。例えば、二〇一九年一月一日の各村の人口は、三二三、三一七、七二五である。
この三村に共通する第一の特長は漁業地区の子供のにぎわい(一四歳以下の子供の人数の一五歳以上の人数に対する割合)がその漁業地区のある市町村の子供のにぎわいより大きいということである。これは元気な漁村を考える際の一つの重要な指標といえる。
具体的には、利島村〇・三一四(〇・二三三)、御蔵島村一・〇(〇・二五九)、渡嘉敷村〇・二六七(〇・二三二)。ここで面白いのは「県勢二〇二〇」による二〇一九・一・一の子供のにぎわいが、三村そろって東京都(〇・一二六)や沖縄県(〇・二〇五)のそれより高く、なおかつ同じような値を示していることである。
御蔵島村の漁業地区の子供のにぎわいが特別に高い数値なのは、後述するような漁業センサスにおける海業に対する水産庁と地元漁協の対応のちがいが関係している。
なお、ここで特筆しておきたいことは、岡(二〇一三)の「全国で最も自殺率の低い一〇市区町村」にはすべて漁村があるが、二〇一八年の漁業センサスにおいて、漁業地区の子供のにぎわいが所属する市町村の子供のにぎわいより大きいのは利島村と渡嘉敷村のみである。子供のにぎわいが大きいということと、自殺が少ないということとは関係がありそうだが、具体的にどうなのかとなるとはっきりとは答えられない。
しかし、『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある』(岡 檀 講談社 二〇一三)にある一九七三年から二〇〇二年までのデータを解析しまとめた、「表1 全国で最も自殺率の低い一〇市区町村」は説得力があり、一位利島村、三位渡嘉敷村に驚き、六位に同じ伊豆七島の神津島村があるので御蔵島村も自殺が少ないのではと考えたくなる。
要は、今回取り上げた三つの村の特長は、住み心地が良く、生きることに希望が持て、喜びを感ずることのできる村であり島であり地域であるということなのかもしれない。
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漁業の内容において、各戸の所得に大きな格差が
ほとんど見られない。三村に共通する特徴の三番目である。
このようなことを考えたのは会田弘継〝アメリカ白人社会の格差と病〟で、絶望死という言葉に出会ったからである。これは、アン・ケース、アンガス・ディートン(二〇二一)『絶望死のアメリカ─資本主義がめざすべきもの』や、ニコラス・クリストフ、シェリル・ウーダン(二〇二一)『絶望死 労働者階級の命を奪う「病」』等をもとに、トランプ現象が起きた原因の本質を考えた「世界」二〇二一年七月号のレビューである。
これはディートン夫妻がアメリカ人において、〝働き盛りである四五歳から五四歳の白人中年層の死亡率が一九九〇年代末期から上昇している。〟というあり得ない奇妙な現象に気がついたことから始まる。その死因を調べると、〝自殺、薬物中毒、アルコール性疾患による死亡者数が増えている。主として学歴が高卒以下(含・大学中退、以下同じ)の白人中年層において、特に薬物中毒の死亡者数が急上昇している。〟。
先に引用した岡(二〇一三)の表1では一〇市町村のうち島でないのは八位の徳島県海部町(二〇〇六年に両隣の海南町と宍喰町と合併して海陽町となった)だけであるが、そうであるが故に岡は海部町に通いその自殺率の低さの理由を調べた。
ここでは別のことでこの海部町に注目する。本誌第一一七号の「リリース雑感」の五六ページで紹介した渡りのイシダイが再捕された徳島県鞆浦の定置網というのはこの海部町にある。薩南海域の産卵場に向かって南下する渡りのイシダイにとっては、この鞆浦の大型定置網は死の関門と言える。
ところで、生き心地の良い町、海部町の漁業地区鞆浦の暮らしやすさはどうなのだろうか。二〇一八年漁業センサスでこれから紹介する三村と比較してみる。まず、子供のにぎわいであるが、〇・〇二一と両隣の浅川〇・〇五九、宍喰〇・〇八一より小さい。
これは猿払村等と同じに共同経営体が多い鞆浦の個人経営体四八の数値と考えられる。その共同経営体三、漁業生産組合一の内容は、大型定置網一、中・小型まき網二、沿岸かつお一本釣り一と考えられ、その海上作業での雇用者四〇名をかかえる四経営体は二〇〇〇万円から二億円の漁獲物販売金額をあげたと思われる。
その結果として、四七個人経営体の平均販売金額は一八七万円と推定されるが、四経営体の経営者と雇用者合計四四名の平均販売金額は九三二万円となる。
このように、収入面においては、個人経営体と共同経営体等関係者の間には、明確な格差が生じているが、調査から一五年近く経過した二〇一八年現在、旧海部町地区の生き心地の良さがどうなっているかはわからない。
なお、人口九四六七人の現海陽町の子供のにぎわいは〇・〇八一である。今回取り上げた三村の子供のにぎわいと漁業地区のそれとの関係を考えると海陽町には厳しいものを感じる。
この鞆浦の実態を知って考えたことだが、後で詳しく検討する三村の漁業の内容において、各戸(経営体)の収入(所得)の大きな格差がほとんど見られないということが三村に共通の特徴の三番目である。
ここまで三つの村(漁村)に共通の特徴を見て来たが、当然のこととして三つの村が全く異なる対応をし、それぞれの歴史を刻んできた事柄もある。それが一番厳しく深刻に影響したのが、アジア・太平洋における日本の一五年戦争へのそれぞれの村のかかわり方と言える。
利島村では村史によれば、一九四一年一二月の開戦は、村で唯一のラジオが使用不可能の状態にあったが、開戦一四、五日後に、利島沖で操業する漁船が日章旗をあげているのを不思議に思い長岡一郎が泳いで行って理由を尋ねてわかった。一九四四年には新島に進駐していた第七八三五部隊の一部と一五名の通信隊が進駐している。渡辺通信隊長の〝軍事的価値の無い島には攻撃しないはず〟との意見もあり村では学童の集団疎開はしなかった。利島村出身の戦死者は一九三七年より一九四五年八月まで一一名であった。
一九四五年一〇月ごろに一〇名ほどの米兵がタグボートで上陸して来て島内の軍需施設を案内しろとメモを見せ、七八三五部隊長の命令で高砂山の頂上に設置した高射砲に見立てた丸太を黒く塗り上げたものを視察し大笑いしてその日のうちに帰ったという。
御蔵島は、島史に戦争下の御蔵島という四八ページにわたる節があるが、利島村のある意味牧歌的な様相とは全く異なっていて、軍施設建設への村民の動員、学童の秋田県への集団疎開、三度にわたる三名の兵士の死体の漂着、米軍機の数度の飛来と一度の空襲などがあった。
渡嘉敷村史は一二章中の第五章三一ページを〝沖縄戦と渡嘉敷〟に割いている。一九四五年三月二三日からの空襲と艦砲射撃の後に三月二七日、米軍は渡嘉敷島に上陸した。三月二九日には慶良間諸島全域を手中におさめた。ここでは三月二八日に起こった住民の「集団的な殺しあい」について村史の一九八ページの文章をそのまま載せる。
〈住民の「集団死」は、手りゅう弾だけではなかった。カマやクワで肉親を殴り殺したり縄で首をしめたり、石や棒でたたき殺したりして、この世の地獄を現出したのである。このときの死者は三二九人であった。一般に「集団自決」と言われているが、実態は親が子を殺し、子が年老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺すといった肉親殺しあいの集団虐殺の場面であった。これは日本軍の圧倒的な力による押しつけと誘導がなければ起きることがらではない。〉
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御蔵島の主産業は、イルカウォッチングである。
客数は年平均1万3000人前後で安定している。
三村の漁業地区の漁業への依存度は、二〇一八年漁業センサスにおける漁獲物の一経営体当り平均販売金額、三〇〇万円、一〇〇万円、二〇〇万円がよく示している。経営体は個人経営体のみでその数は、一八、五、二六である。
ここで御蔵島が五経営体と少ないのは、報告した漁協として島の主産業であるイルカウォッチング船の扱いをどうするか迷っていることがうかがえる。というのは、水産庁の離島漁業再生支援交付金の申請資料では平成二六年漁業集落三三世帯のうち漁業世帯二四世帯、(参考)集落漁業者平均所得年額三七万六六〇五円とあるが、これはある程度実態に合った数字だと思う。
ただし一一隻ほどあるイルカウォッチング船の実態が全く見えてこない。「東京都の水産」では御蔵島漁協の正組合員数は二三名となっているがそのうち一一名くらいがイルカウォッチングを営んでいると考えられる。
御蔵島観光協会の二〇一八年二月の報告書によれば二〇〇五〜二〇一七年の御蔵島のウォッチング客数は年平均値のべ一万三〇〇〇人の前後を安定的に変動している。一九九九年の御蔵島船主・遊渡船会による規則で乗船料は大人一人六五〇〇円と決まっているので約八四五〇万円の年収となる。この客数が安定しているのは定員一五二人という総宿泊者数が限定されていることにある。その七軒の民宿等宿泊施設の経営者の多くはウォッチング船主でもある。
このような漁村における漁業から観光案内業へという生業の転換を、婁 小波(二〇〇六)は海業へとして、渡嘉敷島の民宿経営とダイビング案内業への一九九〇年代後半からの変化に見ている。しかし、渡嘉敷島の場合は、御蔵島と異なり正組合員数は三〇名を超えて増加しつつあり、潜水器漁やひき縄など釣漁で漁獲販売金額が三〇〇万から八〇〇万円の経営体がセンサスでは五経営体ある。二六軒の民宿のうち一五軒が漁協組合員によって営まれており、ダイビング・ショップ一四軒のうち一二軒は漁協組合員の手によるものである。
以上、この二つの海業の漁業地区(村)に対して利島村の漁業地区はイセエビとサザエを刺網で捕獲し、トサカノリをはじめ海産物をきめ細かく有効利用している。渡嘉敷島近海には四月に、小笠原諸島と同様にザトウクジラが出産に回遊してくる。
御蔵島周辺に定着している一〇〇頭以上のミナミハンドウイルカは、利島近海にも二頭ほど定着して、利島でもウォッチング船が三隻ほど営業を始めたがいつのまにか姿を見なくなった。島の周囲で漁業を操業するということとイルカの定着は関係するのかもしれない。
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渡嘉敷島の太陽光発電施設で得た電力は、海底ケーブルで
慶良間諸島に送っている。コモンが成立している。
最後に、三つの島について日本全土においてもユニークなことを見てみる。
まず、利島の椿。水田のない利島や御蔵島では江戸時代椿油やツゲ(柘植)や桑材が特産品であり、租税として幕府に納められ、食料は扶持米制度によって支えられた。利島村では切替畑によって里芋、大根などを栽培し自給していたが一九三五年頃から椿の造林拡大に伴って切替畑は換金の有利な椿産業に移行していった。
現在の椿産業の実態をよく調べた報告として、植村円香(二〇一一)「東京都利島村におけるツバキ実生産による高齢者の生計維持」地理学評論八四─三、二四二〜二五七がある。農協が椿油精製工場を運営していることもあり生産者は組合員となり正組合員数は五六名である。二〇一六年農協の椿油生産金額は一億円を超えた。植村(二〇一一)の調査ではツバキ油の年間販売収入が一〇〇万円以上の生産者が一〇名おり、内訳は七〇歳代六名、六〇歳代三名、五〇歳代一名である。
利島村の納税義務者数一九五名中、農業所得者が九名となっている。御蔵島と渡嘉敷島はゼロである。なお、給与所得者は一五一、一五二、二七一名である。椿油生産量日本一の利島村は、村役場、漁協、農協みな職員は島外出身の若者が多く、より高齢の島在来の生産者を支えている。
国の施策で巨木が次々と伐採、運搬、利用される中で、〝この島の周辺に逆巻く黒潮と強烈な西風が海運を阻み、結果として、同様な事例の展開が困難となり、「御蔵の森」が保たれてきたとも言えよう。〟と島史に書かれている。
その結果二〇〇一年に行われた全国的な自然環境基礎調査である「巨樹・巨木林フォローアップ調査」の市区町村別の一㎢当り巨樹の本数のベスト10では、御蔵島村(三九本)、利島村(二三)、文京区(一四)、港区(八)、新宿区(六)、奈良県宇陀町(四)、千葉県旧八日市場市(四)、世田谷区(四)、三宅村(三)、島根県大東町(二)という驚くべき結果がでている。
島史の第六編研究編の第二章人物として、栗本鋤雲、栗本市郎左衛門、高橋基生が取り上げられている。栗本市郎左衛門は、一八六三年のヴァイキング号事件で四八三人の乗員を救助した際の立役者であり、一九六〇年から植物調査に訪島し始めた高橋基生は、有吉佐和子『海暗』の舞台である一九六四年の米軍水戸射爆場の御蔵島への移転問題に際し、栗本の「西洋黒船漂難一件記」をもとに、当時司法長官のロバート・F・ケネディ等に手紙を送り、アメリカの公文書等をさがしていた。
そういうこともあって、米国からの要請で、米国民が世話になった御蔵島の人々に、仇になるようなことはできないと、この移転問題は立ち消えになった。事実は小説よりも奇なりと言うが、イルカウォッチングも含めて有吉佐和子の予想もしなかったことが次々と起こっている。一九九九年九一歳で没した高橋基生の戒名は生基院殿研学御蔵居士である。
三島の発電事情をみたとき、渡嘉敷島に特徴的なことは、一九八八年通産省のNEDO(国立研究開発法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構)が二〇〇kWの発電能力を持つ離島用太陽光発電の研究施設を建設し、沖縄電力と三菱電機がNEDOから受託して研究開発を進め、それまで運転されていたディーゼル発電系統に接続、配電を行なっていることである。
これは現在銚子沖で東京電力等が洋上風力発電で行なっていることと同じである。この先進性にはびっくりしたが、それ以上にその電力を海底ケーブルで座間味島、阿嘉島、慶留間島に送っていることである。慶良間諸島でのコモンが成立している。
大島、新島、神津島、八丈島は大正から昭和初期にかけて送電を開始しているが、利島と御蔵島はそれぞれ固有のやり方で戦後に発電を開始している。利島は一九四八年椿油製油工場の油絞り用発電機を使って電灯利用共同組合によって送電(四時間)を開始している。なお、その戸別の電気料金を現在は農協が受託して徴収している。
御蔵島では火力による自家発電に始まり、一九五八年農協による川田での水力発電所(最大時間当り五〇kW)の発電が始まっている。
(了)
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おかげさまで売れています。『フライの雑誌』第124号は、待ちに待った春、ココロもカラダも自由な「春の号」です。