学生時分にアルバイトしていた「フライの雑誌」の中沢孝編集長と話していて、なにかの弾みで、「東京近郊の渓流はもちろん、モンタナの川だって管理釣り場みたいなものだからね。」と言われた。
頭の毛の一本一本から足の小指の爪先までフライフィッシングに全身萌えていて、血気盛んだった自分は、(釣り雑誌作ってる人がそんなこと言うんですかい。)と、正直鼻白んだ。がっかりっすよ、みたいな。
今は肯定的に理解できる。あのひと慧眼だったなと思う。要は〝管理〟の定義の問題だ。
リンク先は、2005年の自分の発言。ここで自分がえらそうに喋っている、「日本のマス釣り場をとりまく環境の基本線と、問題点の内実は当時とあまり変わりありません。」という認識はいまも同じ。
でも、おそらくはほんの少しずつながら、全体としてよい方向に進んでいるような気も、しないでもないこともない。
だって、ほんの少しずつでもよくならないのなら、私たちは「まるで」「まるで何だと言うのです?」「幽霊ではありませんか」。
トシ食って見聞きしてたくさん魚を釣って、人間の社会には曖昧なままの方がいいこともある、と学んだかもしれない、かもしれない。
動画の中で『フライの雑誌』122号が紹介されています。
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