フライの雑誌-第59号

フライの雑誌第59号
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ロッドメーカーを始めて23年/宮坂雅木さんに訊く

東京の中央区新富町にある「マッキーズ」という釣り具店は、オリジナル仕上げのフライロッドの製作をいち早く始めたユニークなお店だ。そのマッキーズの店主である宮坂雅木さんは、ロッドメーカーを始めて今年で二三年。現在六六歳の宮坂さんが釣りを始めたきっかけ、ロッド・ビルディングを始めてお店を開くまでの経緯、それから現在に至るまでにフライフィッシングを通じて見聞き体験してきたことなどを伺った。

税込価格1,250円

ISBN 9784503148322


INDEX

004 ロッドメーカーを始めて23年/ 宮坂雅木さんに訊く 「ずっと手仕事を続けていきたい」 倉茂 学
017 隣人のフライボックス[特別編] そして時は流れた! 9年目のフライボックス 渡辺貴哉
027 スタンダードフライ・タイイング図説(28) Natural Born Flytier ハリー・ダービー物語 備前 貢
038 日本釣り場論(27) 寒河江川よ、どこへ流れ行く 堀内正徳
056 裏銀座のロッドメーカー 田中啓一
076 『川釣り』雑感 渡辺裕一
022 優しき水辺(51) 斉藤幸夫
024 谷底の野生 角 敬裕
037 フィールド通信 編集部
015 トラウト・フォーラム通信 トラウト・フォーラム事務局
048 アメリカ人のフライフィッシング文化考(14) アメリカと日本におけるフライフィッシングの知名度の違い 西堂達裕
050 イワナをもっと増やしたい!(14) キャッチ・アンド・リリースされたイワナは本当に生き残るのか? 中村智幸
062 オレゴンの日々(17) 私のありふれた日常 谷 昌子
066 ネルソン便り(5) ウイルダネスへ!(二) キョーコ・マーフィー
080 モンタナ暮らしは、なぜ楽しかったのか 開かれていない日本のフライフィッシング 上田真久
082 九重町界隈通信(4) 小学校の授業にかりだされた 田中典康
086 アメリカは殺すが、レオンは殺さない 宮坂雅木
090 青空 村川堅一
094 スラックジャーナル 編集部
100 読者通信

内容紹介

フライの雑誌第59号-01
フライの雑誌第59号-02
フライの雑誌第59号-03
フライの雑誌第59号-04
フライの雑誌第59号-05
フライの雑誌第59号-06

ロッドメーカーを始めて23年/宮坂雅木さんに訊く 「ずっと手仕事を続けていきたい」 倉茂 学

釣り名人だった親父
初めての釣り

宮坂 ぼくは生まれは湯島(文京区)で、育ったのはこの新富町から一キロくらい隅田川よりの湊町(中央区)というところです。ずっと東京の下町ですね。

湊町のぼくの実家は三階建ての家だったんですけど、それをぼくが小学二年生くらいの時に国に強制的にぶちこわされたんでこの新富町に来た。爆弾が落ちたときに火事で延焼しないように、ということだったんですが、後から考えたら、近くに聖路加病院があったから、アメリカがその周辺に爆弾を落とすわけがないんです。

しばらくして秩父の長瀞へ学校ごと集団疎開しました。終戦になって新富町に戻ってきたのは小学五年生くらいです。

湊町にいた頃は、親父(宮坂普九)や兄貴がアユやフナを釣りに行くのにくっついて行ってました。まだ自分ではあまりやった記憶はありませんね。隅田川で泳いだりもしてました。

新富町に越してからの隅田川や月島のハゼ釣り、それから皇居のお堀の五目釣りが、釣りが楽しいと思った最初でしょうかたぶん。

隣人のフライボックス[特別編]そして時は流れた! 9年目のフライボックス 渡辺貴哉
編集部から「フライボックスの撮影をしたい」と依頼を受けたが、ベストから取り出したフライボックスを見ると、中身はスカスカでろくなフライが入っていなかった。そこで、数日をかけてシーズン中によく使うパターンを巻いた。短期間にこんなに多くのフライを巻いたのは何年振りだろう。

というのも、五月の中旬以降、ほとんどフライロッドを握っていなかったからだ。宮崎では、一部の釣り場を除いて解禁から二か月もすると魚の数の減り、水温も上がってしまう。釣りに向かう車から、孟宗竹の大竿に鯉のぼりがたなびいているのが見えるようになると、僕の渓流釣りのシーズンは終わりに近づく。

釣りはフライしかしないという人たちは、その頃から山深い渓流まで足をのばし始める。人里離れたそんな場所での釣りは、春先のお昼頃、菜の花の咲く里川で農作業する地元の人たちの姿を横目にライズを狙うというのとはずいぶんと趣が違う。以前は、僕もよく沢登りをかねてヘズリや高巻きが連続する山奥の釣り場に出かけていたが、鮎釣りを始めてからは、すっかり遠ざかってしまった。だから僕がフライをやるのは、ヤマメとニジマスの両方が禁漁になる二月を除いた一〇月から四月までの約半年間になった。

スタンダードフライ・タイイング図説(28)Natural Born Flytier ハリー・ダービー物語 備前 貢

イントロダクション

一八〇〇年代後半、セオドア・ゴードンの名作「クイル・ゴードン」の誕生を皮切りに、アメリカのフライフィッシング発祥の地となった、ニューヨーク州のキャッツキル・エリア。その後、この地は本誌の当コーナーで取り上げてきた通り、プレストン・ジェニングスや、アート・フリック、ジョージ・ラブランチ等々、フライフィッシングの歴史に忘れることの出来ない、多くの優れた人物が活躍して、その発展と進化を促した地でもありました。そして、そんな土地だっただけに、有名無名を問わず、多くの職業フライタイヤーを輩出したことでも良く知られています。

例えば、アメリカの職業タイヤーとしてはもっとも初期の頃になる、一九〇〇年代初めに活躍したルイス・リヘッド。彼はまた、一九一六年に「アメリカン・トラウト・ストリーム・インセクト」という本を出版しています。そんな、ルイス・リヘッドが、ニューヨークのウイリアム・ミルズ・アンド・サンという店に売っていたフライは、実に個性的なものでした。ウッドやコルクを形成したものを、フライフックに取り付けて、それに彩色を施し、鳥の羽根や獣毛を巻いて、バッタやカゲロウ、小魚、カエル等々のイミテーションを作っていたのです。

ちなみに、ルイス・リヘッドのそんなルアーともフライともつかない作品は、現在のクラシック・ルアーのコレクター達には、フォーク・アートと呼ぶ分野で高い評価を受けていて、びっくりするような高値で取り引きされています。これは、時代が古く珍品だからという理由だけではなく、その独創性が評価されてのことだそうです。

さらに時代は進んで一九〇〇年代中頃、本稿でもたびたび登場する、ウォルト・アンド・ウィニー・デッド。それに有名な「ライト・ケイヒル」の現在のレシピを考案したウィリアム・チャンドラー。キャッツキル・エリアの有名な川、エソパス・クリークのトップ・ガイドとしても売れっ子だったレイ・スミス等々、フライを巻いて糧を得ていた人物はたくさんいたそうです。

が、その中でも、キャッツキル・ドライフライ・タイイングの伝統を今に伝える橋渡し役としても、タイイング技術やマテリアルの進化を促進させたことでも、非常に高い評価が与えられ、さらにフライフィッシングが一部の上流階級の遊びだったものを、誰もが等しく楽しめる釣りへと世界を押し広げる役目を果たした職業フライタイヤーが、今回の主人公ハリー・ダービーです。

本人がその言い方を好んでいたかどうかは別として、「伝説のキャッツキル・タイヤー」と称される、生まれながらのフライ・タイヤーです。

日本釣り場論(27)寒河江川よ、どこへ流れ行く 堀内正徳
日本の内水面(川・湖沼)での釣り場づくりの流れは、ここ10数年で大きく変化してきた。

フライフィッシングを含めた釣り業界で有名人と呼ばれる人々が集まり、釣りメディア、企業と連携して『奥多摩川にキャッチ・アンド・リリース区間を!』という呼びかけを行ったのは1989年だ。振り返れば、日本の釣り場づくりにかかわる釣り人の自主的な活動はこれが最初の大きなうねりだった。それから 13年たった今、当時の賛同リストに名前を連ねていた人で、釣り場をよくしようという活動からすっかり身を引いた有名人や企業もいるにせよいないにせよ、国内の内水面の釣り場には、それまでには無かった多くの新しい要素が生まれている。そのひとつが、かつてはその有効性さえ大まじめに議論されていた「キャッチ・アンド・リリース」だ。

裏銀座のロッドメーカー 田中啓一
その釣り具屋に、ある知人に初めて連れて行かれたのは一九八〇年頃だった。面白いフライの専門店ができたから行ってみないか、という誘いであった。なんでも、オリジナルのフライロッドを店の工房で作っているということだった。

二〇〇二年の現在では、アマチュアのバンブーロッド・ビルダーさえたいして珍しい存在ではなくなったが、当時は、フライロッドといえば高価な外国製の既製品と決まっていた。国産モノもあるにはあったが、まだまだ欲しくなるような物は少なかった。ましてやフライロッドを自作するなど考えてもみない時代だった。

開通したばかりの有楽町線の新富町駅の出口を出てすぐの一方通行の道を歩いていくと、銀座の目と鼻の先とは思えない庶民的な町並みが現れた。ぽつぽつと目に飛び込んでくる芸者の見番や洋食屋、最中アイスを売る店は、東京から消えゆく下町の風情をぎりぎり首の皮一枚で保っているように見える。

件の釣り具屋は、その町並みの中にひっそりとあった。

何ともシンプルなアルミの引き戸。それと言われなければとても釣り具屋とはわからない佇まい。さまざまな鉢植えが店頭の両脇のかなりのスペースを占有していることも、店の存在をいっそうわかりづらくしていた。

店に入ると、釣り具屋特有の、竿やリールの盛大なお出迎えは皆無であった。そのかわり、カーボンロッドのブランク、輪切りのコルク、リールシートやガイドなどのフライロッド用のパーツ類がならんでいた。店の中央に木のテーブルと椅子があり、テーブルの上には飲みかけのコーヒーカップがのっていた。

『川釣り』雑感 渡辺裕一
私にとっての世界三大釣魚文学というのは、迷うことなく井伏鱒二の『川釣り』とヘミングウェイの『大きな二つの心臓の川』、そして開高健の『フィッシュ・オン』であります。

で、今回は井伏鱒二『川釣り』についてのお話です。

この本は旧カナづかいで書かれている。まず、これが生理的に心地よいのですね。昭和二十七年に出版されているから、当然書かれたのはそれ以前で、戦前、戦中の話もでてくる。

「釣れないんだろう。スランプといふやつだな。」

「いや、違ふ。僕が云はないことを、云つたと
云ふ人間がゐるんだ。山女魚なんかになると、
掛かつた瞬間に引いたら駄目なんです。僕がさ
う云つた、と云う人間がゐるんだ。僕は気にな
つて仕様がない。」

「悪いやつが、ゐるものだな。しかし、なんだ
な、釣師といふものは、つらいことに耐へなく
つちやいけねぇ。是か非か、時がさばいてくれ
るもんだ。」(『雨河内川』から)

こういう、どうってことのない言い回しが、この本を読むほどに快感になってくる。でも、これはどうも旧カナづかいのせいだけではないのだナということは、読者も徐々に気づいてくる。読みすすむうちに、著者の独特な語り口にひそむ苦くて、笑いをふくんだやるせなさにいつのまにやら酔わされていることに気づく。つまり、あくまでも個人的でシリアスな問題を話してそれが普遍的なヒューモアになるという名人芸に、読者はもう五感がじんわりとつつまれてしまっているのですね。言葉の快楽とでもいえましょうか。

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