【公開記事】釣りは人生のリスクです。|山のインタビュー 樋口明雄さん 『フライの雑誌』第104号

『フライの雑誌』第104号(2015)から、[特集◉これが釣り師の生きる道] 山のインタビュー 樋口明雄さん(作家)を公開します。題して、「釣りは人生のリスクです」。


釣りは人生のリスクです。|山のインタビュー 樋口明雄さん 『フライの雑誌』第104号

[特集◉これが釣り師の生きる道]
山のインタビュー 樋口明雄さん(作家)

釣りは人生のリスクです。

まとめ 本誌編集部

□2014年12月19日、山梨県北杜市南アルプスの麓に暮らす作家・樋口明雄さんに会いに行った。今号の特集絡みでとはこじつけで、単に樋口さんに会いたかったから行ったのかもしれない。(編集部・堀内)

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左:著書の一部。右:仕事部屋

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北岳に行った

─ 南アルプス最高峰の北岳へは今年二回登ったそうですね。一回目が単独行で、二回目は作家の馳星周さんと編集者さんたちと何人かで登ったんですね。

樋口 僕は基本的に単独行なので、今回みたいな七、八人もいるパーティ登山はほとんど初めてだった。山と渓谷社の編集さんが二人いました。僕がリーダーで先頭を引いて、山慣れしてるヤマケイさんはサブリーダーで、しんがりをやってもらった。ヤマケイさんに「樋口さん、すごい足腰してますね」ってほめられたよ。へへ。僕の脚はムエタイの選手みたいに脂肪分ゼロなんです。女房には「シシャモのような脚」と言われています。

─ シシャモはともかく、初めてのパーティ登山はいかがでしたか。

樋口 たびたび写真撮影休憩とタバコ休憩が入るから、ペースを乱されちゃって、すっかりバテちゃった。

─ 樋口さんは登りでは休まないんですよね。

樋口 登りは超特急です。僕が自分のペースで登って行くと、「特急さんが通るよー、皆さんどいてー。」って誰かが声をかけてくれて、前の列が避けてくれるくらい。でも下りになるとおばちゃんに抜かされちゃう。ちくしょーとか思うけど仕方ない。
登山事故はだいたい下りで起きます。下りは地面までの目線が遠くなる。足を着く時に滑るのは登りより下りです。下りで滑って止まらないと、滑落になっちゃう。物理的にも下りの方が危ない。
あとは、下りの方が実はバテてる。登りで体力を使った後で下るわけでしょう。体力も落ちてるし判断力も鈍っている。だから下りは意識してゆっくり歩いています。

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三匹のイヌたち

─ 樋口さんは人の相棒としてのイヌをしばしば小説に描いています。ご自身でもイヌを飼っていますね。

樋口 イヌを飼うと三匹までは大丈夫だけど、三匹を超えちゃうと無限に増えちゃうらしい。

─ いま三匹飼ってますよね。

樋口 だから「三」を「二」に戻そうと必死になってる。

─ オオカミ犬の血を引くココと、迷いイヌの秋田犬のわさこと、同じく迷いイヌのタヌタヌの三匹ですね。どれを削るんですか。

樋口 そりゃタヌに決まってるよ。

─ 即答ですね。

樋口 もう奥山放獣したいくらい。

─ クマじゃないんだから。

樋口 奥山放獣は冗談だけど、タヌを猟犬や番犬として飼ってくれる人をずっと探しているんです。飼ってくれる人、いませんか?

─ まあ、タヌは見た目はかわいくはない感じかな。

樋口 性格もかわいくないよ。柄本明みたいな顔してるし。妙に人間っぽい目でこっちの様子を伺う。とぼけた顔が腹立つんだ。イヌは三日飼えば恩を忘れないというけど、タヌはうちに来て三年なのにいまだに恩を仇で返そうとする。ココやわさこにガブッ、ってやりかける。小屋につないでいたワイヤーを自分で噛みきって、たまたま近くにいた隣家のネコに襲いかかって殺したこともある。チンピラみたいに目を剥くのもいやだな。

─ 恐がりなのかな。

樋口 いや、恐がりじゃない。あいつにとってまったく恐れるものはない。自分の欲望に逆らえないだけ。野性の本能で「食べる」とか「攻撃する」の欲望に逆らえない。イヌは基本的にそういう衝動をもった動物なんだけど、タヌはなんにも考えてない。とにかく動くものに飛びかかる。石でも枝でも水でも、目の前を動くものに後先考えないで飛びつく。

─ 頭が悪いんですか。

樋口 うん。頭が悪い。イヌの頭の良し悪しを見分けるのにいい方法があります。林の中へイヌがリードを引いて入って行って、絡まらないで元の場所に出てこられれば、自分の動いたルートを覚えているということだから頭がいい。それができないで、自分のリードに絡まっちゃうのがいる。タヌは毎回がんじがらめになっている。絡まった状態で卑屈な目で見上げてくる。タヌよりもわさこの方がかわいいし、わさこよりもココの方がずっとかわいい。どうしても贔屓しちゃう。これは仕方ない。

樋口家の三匹の犬たち。左から、ココ、わさこ、タヌタヌ(タヌ)

─ 人間だっておどおどして攻撃的な子どもより、ごろごろ懐いてくる子どもの方がかわいいですもんね。

樋口 ネコは独立性があってもいいんだけど、イヌは人間と家族だったり仲間だったり部下だったりする。だから人間と関係性を保てないと、イヌ失格ってことになっちゃう。おまえイヌ以下だ、みたいに。

─ もともとタヌはどうやって樋口家にやってきたんですか。

樋口 ココを連れて息子と里を散歩してたら着いてきた。息子に頼まれたのでうちに連れて帰ったんです。迷いイヌなら飼い主が名乗り出るだろうし、もし分からなくても里親が見つかるだろうと思ったら、とんでもない。まさかあれから三年も飼うとは思わなかった。わさこもうちへ勝手にやってきたイヌだけど、愛嬌があるからかわいいんだ。

─ タヌという地縛霊にとりつかれた感じですか。

樋口 それに近い。肩に乗られちゃった。2月の大雪でタヌの小屋が埋まったんです。朝になって埋没した小屋を見た時は「あ、タヌ死んだ」と思った。

─ ラッキー、とか思ってないですよね。

樋口 (無言)。雪をかき分けてタヌの小屋まで行った。雪を掘り返して声をかけたけど出てこない。やっぱり死んだかなあと思った次の瞬間に、ドカーンって雪の中からタヌが飛び出てきた。ドカーンだよ。うちの三頭の中でタヌがいちばん長生きしそう。核戦争もタヌだけ生き延びるんだろうな。

─ 雪を掘ったらボコッと怪獣みたいに出てきて、タヌはそのあとどうしたんですか。

樋口 こっち見てシッポ振ってた。

─ かわいいじゃないですか。

樋口 へへ。

─ 頭なでてあげたんですか。

樋口 僕はタヌはなでない。しゃくだから。

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アブない猟師

─ 樋口さんの作品にはよく猟師が出てきます。最近はブームらしく、ファッションから入ったような若者の猟師も多いようです。

樋口 猟は腰を据えて、生き方を変えるくらいでないとできない。釣りも猟も相手の命をかけている点では同じだけれど、猟には没入するくらいの意地が必要でしょう。釣りはファッションでできるかもしれないけど、猟はそれを許してくれないと思う。ファッション猟師はすぐに消えるでしょう。

─ 職業猟師は日本にほぼいません。でも呼び名としては「猟師」。違和感を感じます。

樋口 職業じゃないなら趣味ですよ。もちろんマタギじゃないし、「猟師」とも言えない。僕は「サンデーハンター」と呼んでいます。

─ 樋口さんの単行本『許されざるもの』で、猟師が自分の「プライド」について語る描写がありました。猟師としてのプライドはどういう理屈から出てきているものでしょう。

樋口 猟友会に入って仲間で猟をする集団にはなぜか特権意識が芽生えるんです。これから自分たちが猟をするからハイキングのお前たちは山を下りろ、と平気で言ってきます。僕はなんで下りなくちゃいけないんだとと聞き返しますけどね。猟友会は地元に根ざした組織だから、勝手におらが山を縄張りでくくってしまう習性がある。
オレンジの服と帽子の制服を身に着けることにより特権意識が自然と身に付くのだと思います。僕が北杜市に移住したばかりの頃は、銃を抜き身で持ち歩いてるハンターが公道をウロウロしていました。ここはウエスタンかと思いましたよ。ココも撃たれそうになったことがあるし、僕自身も銃口を向けられたことがあります。
僕は彼らのあいだで有名だったから、家に無言電話もかかってきた。「よそ者が余計なことをするな」という脅しですね。でも脅されると、僕は逆に一歩も引きません。その内に向こうが呆れてあきらめました。

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一目置かれ作戦

樋口 僕は高校時代を広島で過ごしたんですが、周りに不良がたくさんいた。僕は納得いかないことがあったら、ぼこぼこにされても向かって行く。そうすると向こうもだんだん面倒くさくなって「あいつには手を出さない方がいい、しつこいから。」って。これを「一目置かれ作戦」と呼んでいました。

─ 一匹狼が生き残る作戦ですね。

樋口 いま僕はカラテをやってるんですが、僕みたいな性格だと、じつはまずいんです。ケンカのときにカラテを使ってはいけないから。カラテは黒帯になった段階で凶器と見なされます。だからチンピラなどの中には本当はかなりやるのに、わざと黒帯をとらないのがいるそうです。

─ 樋口さんはたしか今一級で、黒帯のひとつ手前ですね。まさかわざと黒帯を取らないでいるとか…。

樋口 僕の場合は実力がないだけですよ。フフフ。

─ 不気味な笑いですねえ。

樋口 僕は本当は、頭を使う小説家より腕力で何とかするキャラの方が自分に合ってると思うんです。文句があるなら、チカラとチカラの勝負で決めようじゃないかという。広島でああいう青春時代を過ごしてしまったことが、僕の人生の基礎になってるんだなあ。

─ ろくでもない基礎ですね。

樋口 今でも道路で車で煽られただけでピーンと頭に来ちゃう。後ろからガンガン煽られて、頭に来て車を通せんぼして止めて降りて行って、煽ってきた車のドアをバーンって蹴飛ばしてから運転席をのぞいたら、若いお姉さんが脅えていた。「あ、すみません」ってなんでこっちが謝るんだ。

─ 樋口さんは相手が強かったり、偉そうだったりすると、それだけで気にいらないんでしょう。たいていのやつには腕力で負けないもん、とか思ってませんか。

樋口 うん、思ってる。でもね、実際は腕力じゃなくて、論理展開でたたかいますよ。殴ってもうらまれるだけです。暴力の連鎖は止まりませんから。

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アンバランスな人生

─ 今号の特集は「これが釣り師の生きる道」と言うんです。釣りの話をしましょう。

樋口 いまの僕は釣りも登山、カラテとかほかの趣味と仲良くやっている。釣り人であるリスクは、今はあまりないかな。

─ 釣りはリスク抱えてやるものなんですか。

フライの雑誌-第104号

樋口 もちろんです。趣味ってふつうにリスクを抱えてるものですよ。社会的リスクもあるし、人生的リスクもある。とくに家庭をもってしまうとパワーバランスを考えないといけない。そこを自動的にできないと家庭崩壊に至ります。我が家に関してはヤジロベーの両サイドが子供であることで、かろうじてバランスがとれている。
僕にとっては、家庭が真ん中で、釣りがあり、カラテがあり、仕事がある。僕にとってのモチベーション、やる気はこの多角形で説明できます。芯棒は家庭にあります。ふつうは真ん中に仕事がくると思うんだけど、僕は違う。
完全な家庭じゃないけれど、子どものために生きている。生きるために仕事をする。仕事をするために山を登ったり、釣りをする。小説家はそれぞれが資料になったり、エネルギーを与えてくれる糧になってくれます。僕が小説で山や釣りの話を書くのなら、仕事と山と釣りは区別できない。だから確信犯的に、それぞれを行ったり来たりしているんです。

─ 仕事と趣味とは渾然一体としてるんだろうと思っていました。

樋口 いいえ、あくまでもヤジロベーのようにバランスをその時々でとっている感じです。それぞれは本来同等なんだけど、色が違う。僕にとって釣りの色は家庭の色に近い。でもカラテと釣りの色は違う。

─ 区切れるんですね。

樋口 区切らないとやっていけませんよ。なぜかというと僕は住まいと同じ場所で、24時間仕事をしている。仕事も趣味も家庭も、同じ高さにある。その中で区分するしか、自分には方法がない。…とはいえ、うーん。区分をつけられなくなってるんですよ、最近。

─ あれれ。

樋口 バランスがとれていないから、釣りに行く気になれないんですね。川が呼んでくれない。でもむりやり行ってみたら、それは釣りだから楽しい。やっぱり楽しいじゃないか、って集中して川に通う。禁漁間際がそうだった。どうもバランスが悪いんだな。心がフリーにならないんだ。
仕事面でもじつは同じで、自分にとって仕事はなにかと言われたら、小説なんだろうけど、小説ってなあにと言われたら、うまく説明できない。あまりにも曖昧ですよ。仕事に対するイメージが不定形生物みたい。なんという危うい人生か、アンバランスな人生かと思います。小説を一本書き終えると、スカッとした開放感があるんです。それはそれは気持ちがいい。でも、この小説の終わりは次の小説の始まりだと思うとね。重荷。

─ 重荷!

樋口 ゴールを裏から見たらスタートって書いてあったみたいな感じ。毎回毎回その繰り返しを何十年もやってきた訳です。

─ でもそれを楽しんできたから、続けてこられたんですよね。

樋口 うん。ほんとうに重荷と思ってたらやっていけませんよ。フフフ。

─ 『目の前にシカの鼻息』には樋口さんの若い頃のお話しが書いてありますが、現在のように家族を中心においた暮らしとはまったく縁遠い日々だったようですね。

樋口 僕が家族を人生の中心に置きたがるのは、家族に助けられたからだと思う。若い頃の暮らしを続けていたらとっくに死んでいた。南アルプスには阿佐ケ谷みたいに魅力的な呑み屋がたくさんないのは助かりますね。僕にとってここは環境的に落ち着けるんです。外に出ると星空がある、川がある、山がある。イヌがいる。家族がいる。あれ、なんで家族が最後になっちゃったんだろう。

─ 家族が中心だったはずですよね。

樋口 もちろんですよ。フフフ。(あやしく笑う)

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書き終えて泣いた

樋口 山に暮らしていると、基本的に出てくるのはシカとイノシシ、時々クマ。人間はあまりいないから、確実にそれだけでストレスが減ります。都会ではいやでも他人の表情がみえるし声が聞こえてきますから。
自分はいま南アルプスの麓の北杜市に住んでいて、この土地、ここの山、ここの川、ここの人間、動物をテーマにして、まだ書いていない小説、書きたい小説がたくさんあるんです。ローカルな作家です。釣りする川もすぐ隣りの川だけだしね。
僕が大好きなスティーブン・キングはアメリカのど田舎のメイン州にずっと暮らしていて、自分が住んでいる地方を舞台にした作品を生み出し続けている。天才を真似してもいいじゃないかと思う。以前書評家の方に、グロバールな視点で世界を舞台にした小説を書いてください、と言われたことがあるんだけど、興味がないんですよ。やりたくもない。だめ?

─ いやいや、素敵なスタンスだと思います。2014年は大作『許されざるもの』をリリースするという大仕事をやりましたね。重厚な作品です。

樋口 『許されざるもの』は一年半も苦しんで書きました。主人公は僕の投影です。私小説に近い。だから余計苦しんだ。試行錯誤の連続でした。あれは不完全な家族の物語です。
大藪春彦賞をいただいた『約束の地』は、誘拐事件はあるわ巨大イノシシは出てくるわで、エンターテインメントな作品でした。本来その続編は同じ調子で書いてもいいはずだけど、『許されざるもの』はオオカミを鏡にして人間を見る物語になった。なんという難しい題材を選んでしまったんだと自分で頭を抱えたけれど、最後まで書ききった感じがあります。
最後のシーンを書き終えて、自分で泣きました。

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今度会ったら釣ってやる

─ 作家・樋口明雄のモチベーションの一つには「怒り」があるように思います。前回のインタビュー(第96号掲載)でも、なにもそこまで抱え込まなくてもいいのに、というようなことを樋口さんはあえて抱えますね。まっすぐ、単純、ストレートな「怒り」は樋口さんのヒューマニズムの裏返しだと見ていますが。

樋口 僕は損な性格なんですよ。小田急線の中で見知らぬ酔っぱらいを介抱して、吐瀉物をひっかけられたことがある。今後は酔っぱらいを介抱するのはやめようと思いましたね。今までの僕の人生はそういうことの繰り返しです。一個一個食らって行かないと分からない。最後まで分からないだろうね。でも、そういう自分がきらいではないので、たぶんこのまま死ぬまで行くんだろうなあ。

─ そういえば性格曲がった魚もきらいなんですよね。

樋口 うん。大きらい。素直な魚が好き。へんなライズするのはきらい。シッポではたくのはきらい。

─ へんなライズに遭遇したら、石でも投げますか。

樋口 魚に名前をつける。人間でいちばんきらいなやつの名前をつける。「おいこら××、きさま今度会ったら釣ってやるからな。覚悟して待ってろよコノヤロー」、と捨て台詞を吐いて、その場を去る。で、次にまたやられちゃう。擬人化はよくないというけど、そういう時はつい擬人化しちゃう。こいつおれのことばかにしてるな、とか、上から目線してんじゃないよとか。

─ 魚相手に「上から目線するな」って怒るわけですか。

樋口 だって腹立つもの。釣り人は見えない魚に対して色々な思いを持ちます。だからこそ釣れた時のうれしさ、釣れなかった時の悔しさがひとしおなんですよね。

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やっぱりフライフィッシング

─ 禁漁前の最後の釣りは相当面白かったと聞きました。

樋口 はい。その前の週に来て釣れなかった魚を相手にして、フライをかえるとか立ち位置をかえるとか、時間を置くとか、ごくごく単純な工夫なんだけど、それらがことごとく当たって、結果として釣り上げられたのがうれしかった。魚のサイズはせいぜいイワナで25センチ、アマゴで20センチくらいですが、満足度が高かったですね。だから僕にしてはめずらしくリリースしました。「お前よくやってくれた」と言いながら放した。

─ やっぱり擬人化しちゃうんですね。

樋口 いい勝負をやったな、また来年やろうぜ、と魚に同志的な感覚が芽生えました。久しぶりにフライフィッシングらしいフライフィッシングを楽しんだ。ああこういう楽しみで、自分は釣りをしてきたんだなと再確認しました。ああいう喜びはやっぱりフライフィッシングならではですね。
禁漁間際の釣りの、なにかもの悲しい、せつない雰囲気はいいですね。ココを連れて行かずに一人で行った。いつも一緒にいるココが隣りにいない。この川になんで自分は一人で立っているんだろう、という思いもあった。すると寂しいから、周囲にもっと目が行く。
僕にとってココと一緒の釣りはレクリエーションで、一人の釣りは勝負です。禁漁間際の締めくくりの釣りを大事にしようという、自分の判断は間違っていなかった。あの記憶は残りますね。記憶を引きずるのが釣りです。引きずらなくなったら釣りなんてやめた方がいいと僕は思う。近場の川でああいう経験ができたのもうれしかった。ほんとに面白かったなあ。
禁漁の前日、最後に釣りを終えて、フライロッドをたたんで、上流にあるいつもの神社にお参りしました。あの川は神様の存在を感じさせてくれる川です。春になればまた行きます。釣れても釣れなくても、あの川の釣りがいまの僕の釣りそのものです。

(了)

○このインタビュー収録から早9年。リリースされた樋口作品はさらに増え、ジャンルも広がった。ココ、わさこ、タヌタヌはいなくなってしまった。長年の相棒だったココとの別れは、「フライの雑誌」第124号の連載〈ロング・グッドバイ〉に。そして南アルプスの山並みは今日も雄々しく清々しく、樋口邸の裏にそびえている。(編集部)

参考:【公開記事】作家・樋口明雄さん 山暮らしインタビュー(単行本『目の前にシカの鼻息』から)

ひぐちあきお 1960年山口県生まれ。野生鳥獣保全管理官たちの活躍を描く長編小説『約束の地』(光文社)で、第27回日本冒険小説協会大賞、第12回大藪春彦賞受賞。著書に『ドッグ・ラン!』(講談社)、『許されざるもの』(光文社)、『北岳山小屋物語』(山と渓谷社)、『田舎暮らし毒本』(光文社新書)、『還らざる聖域』(角川春樹事務所)、『屋久島トワイライト』(山と渓谷社)、『ドッグテールズ』 (徳間文庫)、南アルプス山岳救助隊K-9シリーズ、ほか多数。エッセイ集に『目の前にシカの鼻息』(フライの雑誌社)。南アルプスの麓の丸太小屋で暮らす。
facebook.com/higuchiakio.official

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