単行本『アウトドアエッセイ 目の前にシカの鼻息』収録作品より、「クマと生きる」(樋口明雄)を公開します。『目の前にシカの鼻息』は、大藪賞受賞作家・樋口明雄さんの、ユーモアと人間味あふれる初めてのエッセイ集です。
近年、ツキノワグマの分布域が拡大しています(『ツキノワグマ すぐそこにいる野生動物』(山﨑浩司/東大出版会2017)。2016年は秋田県でツキノワグマによる重篤な獣害事件が発生しました。便乗するように、クマの恐ろしさをただ煽るような書籍が多数発行されたのは、記憶に新しいところです。
日本におけるツキノワグマの生息数は正確な数字が把握されていません。にもかかわらず、2016年には全国で3,150頭ものツキノワグマが有害捕獲などの名目で殺されている現状があります。
もちろん人的被害はあってはならないことですが、クマと人間との軋轢が起こる際には、じつは人間の側に相応の理由がある場合が多いといいます。
山へ入る機会の多い釣り人も、身近な野生動物であるクマとのつき合い方を、自分のこととして受け止めてはいかがでしょう。
毎日、クマがふつうに棲んでいる裏山を、愛犬と散歩している樋口さんの場合はこんな感じです。
(編集部)
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【特別公開】
クマと生きる
(樋口明雄)
『目の前にシカの鼻息』より
渓流釣りの恐怖体験といえば、心霊関係と双璧をなすのが、やはりクマである。昔から川釣りとクマ話は切っても切り離せない。なんとなら、渓流釣りというのは、そもそもが彼らの縄張りの中にわざわざ入っていく遊びであるためだ。
だいたい、そうやってクマゾーンに踏み込むだけでもリスクは大きいのに、なぜか(ぼくを含む)一部の渓流釣り師は、もっぱら夕暮れ時を好む。すなわちイブニングライズ。実は、鱒ばかりか、この時間はクマさんたちのディナータイムでもある。
昔から黄昏の刻は逢魔が時と呼ばれて外出を戒められていたのに、あさましくも釣欲に抗することができずに出かけてしまう。ことに県外者たちが昼間の釣りを終えて帰っていき、ようやく静かになった暮れの渓流をたどるイブニングライズ専門のぼくは、すなわち厭でもクマかユーレイか、どちらかに出会うことになる。
だから渓流釣りにおいてクマとの遭遇率が高いのは、当たり前のことなのだ。
釣り人はもっぱら下流から釣り上るし、クマは上流側から下りてくることが多い。
日中は上昇気流が発生して山の麓から頂上へと風が吹くが、逆に夕方は冷え始めた山頂の空気が麓に下りてくる山風になる。それがゆえに上流から下るクマからすると人間は風下になって、嗅覚のすぐれた彼らとて、匂いを察知しづらい。
登山やハイキングなどでは有効なクマ鈴も、林道を歩いているときはともかく、落差の大きい日本の渓流ゆえに、瀬音や水音でその音が伝わらないケースがしばしばある。
◆
梅雨の合間の晴れ日であった。
その日の薪割り作業を終えたあと、〈里守り犬〉ココとともに、いつものようにサル追いのトレーニングを兼ねて裏山に入った。
すでに夕暮れで辺りは薄暗い。森の中の小径をしばらくたどり、やがて最後の別荘を過ぎて、渓流に沿った下り道にさしかかった。そこには、山の地主が野生のキノコを栽培するために斜面にクヌギやナラの榾木をたくさん並べて、低くネットで囲った場所がある。
リードでつないでいたココが、ふと立ち止まって前方を見ている。
野生動物と遭遇すると、ココはいつも尻尾をL字に曲げる癖があるので、またシカでもいたのかと思えば、一メートルぐらいの高さのネットの向こうに、ぬっと黒い影があった。
距離にして一〇メートル。丸い顔の上に、小さな丸い耳がふたつ。
──おや、クマだ。ツキノワグマだ。
そう思った矢先、そいつは背を向けて、とっとと斜面を駆け上っていってしまった。真っ黒な影があっという間に木立の向こうに見えなくなった。まるで幻を見ていたかのように思えたのは、クマが逃げる際、そのスピードにもかかわらず、かさりとも音を立てなかったためだろう。
クマと遭遇した犬は、よく全身の毛を逆立てるとか、怯えて性格が変わるだなんて話を聞いたけど、うちのココにかぎっていえば、まるでそんなことはなく、むしろシカを見つけたときと同じく、向こうを遊び相手と認識したようで、前に出ようとしてまいった。
ところが、帰途、ココはやけにぼくに寄り添ってくる。そしてぼく自身もなぜだか落ち着かず、この気まずさはなんだろうと思ったら、高校生の頃、友人とふたり、下校途中で不良たちに絡まれたあと、友と顔を見合わすことができずに、会話もなく、とぼとぼと肩を並べて帰った、あの日の記憶を思い出した。
いや、けっしてクマが怖かったからじゃなく、それまでてっきりぼくとココの〝王国〟だと思っていた裏山の、本当の王様に出会ってしまったような気がしたから、お互いに気まずくなってしまったのだと、あとになって気づいた。
何年も前から、我が家の周辺──ことにジンバ・フライフィッシングエリア付近で、クマの目撃情報が何度かあったし、森の奥にクマ剥ぎと呼ばれる爪痕も残っているし、うちの隣にある別荘の庭に、真冬、〝穴持たず〟と呼ばれる、冬ごもりの最中に腹を空かせたクマがうろついていた足跡を雪上に見つけたこともある。最近では、たとえば甲府の市街地近くの里山に出没したりもするし、クマという動物は、案外と人里近くに暮らしているらしい。
◆
初めて遭遇したのは北陸の某川。もう一〇年以上前だった。
薄闇の中、藪の陰でライズ待ちをしていると、突然、ガサリと目の前の繁みが揺れて、真っ黒な動物が斜面を駆け上がっていった。腰を抜かしそうになった。
仔グマだった。きっと、近くには母グマもいただろう。付近には民家も多くあり、いわばそこは里の川だった。
数年に一度、全国的に〝ツキノワグマの大量出没の年〟といわれたときに、そこはさんざん目撃や遭遇事件が起こった場所であり、さらに遡って昭和二八年の一〇月には、猟師に手負いにされたクマが市街地に出てきて暴れ、何と三〇分で一三人に重軽傷を負わせるという惨事が発生した土地でもあった。
二度目は数年後の秋。場所は変わって、南アルプスの某渓流。そこはかなり上流まで遡ったところに車止めのゲートがあって、釣り場のポイントまでは最低でも三〇分から一時間ぐらい林道を歩く川だった。しかも昔から「クマが多いから危険」と地元の噂があった。
いまにして思えばかなり楽観主義者だったらしく、その頃はクマ鈴もなしに無防備に単独で入渓していたし、ひとたび釣り始めると、決まってとっぷりと日が暮れるまでひとりで竿を振り続けていたから、いつ逢ってもおかしくない状況だったはずである。
そのときの釣果のほどは記憶にないが、納竿後、登山用のヘッドランプを頭につけて、ゆるい斜面を登り、ようやく林道に到達したとき、ある気配を感じた。
林道の上流側、およそ一五メートルぐらいのところに、真っ黒な生き物がいた。ずんぐりと大きな体躯をしていて、やっぱりというか、頭にのっかったふたつの丸い耳のおかげで、すぐにクマとわかった。かなり大きかったように憶えている。
幸運だったのは、そいつが上流のほうにいてくれて、ぼくが戻る方角とは反対側だったこと。それから、ぼくが発見したとき、すでにクマのほうがこちらに尻を向けて、退散の姿勢をとっていたことだった。つまり肩越しに振り返る(クマに肩なんてあればの話だが)恰好で、そいつはこっちのことを見ていたのだった。
ぼくはといえば、フライロッドを片手に持ったまま、棒立ちになっていた。のそのそと林道を山奥に向かって去っていくクマの姿を茫然と見つめていたら、ふいに、やっこさん、ダダッという感じで猛ダッシュして、近くの木立に入り、薄闇の向こうに見えなくなった。その速いこと。
──ああ、クマだ。クマがいた。
そんなことを心の中でつぶやきながら、ゆっくりと後退り、やがて踵を返して、おっかなびっくりで林道を下り始めた。
帰途、後ろが気になって、何度も何度も振り返る。そのたびにヘッドランプの光で林道を照らしては、さっきのクマがよもや引き返してこないかなどと思う。あるいは、クマは逃げると見せかけて、実は森の中を回り込んで、だしぬけにぼくの前方に出現するんじゃないかと想像したりする。
そんなふうに、いらぬ妄想ばかりが次々の脳裡をめぐるものだから、クマよけと思いつつ、実は自分を鼓舞するつもりで、わざと口笛を高らかに吹いてみたり、大声で唄を歌ったり、ようやく車止めゲートの傍に置いたジムニーのドアを開けて、車内に入ったときは、さすがにホッとした。
三度目は、その翌年の、たしかゴールデンウィーク明けだ。
前の年にクマを見た川の支流。実をいうと、そこも地元民からは「あそこはクマが多いじゃ、気ぃつけるだよ」と注意勧告されていた場所なのだけど、めったに他の釣り人に会わない穴場ってこともあって、ちょくちょく通っていた。
あんまり上流に行かなければ大丈夫だろうなんて、まったく根拠のない理由で川に立ち込んでいたんだけど、夕刻、いざ納竿してみれば、左右は崖で、林道に上がる場所もない。
入渓点まで下るか、それとももう少し遡ってみるか逡巡した挙げ句、上流を目指すことにした。地図によると、少し上にオートキャンプ場があるはずだった。キャンプ場ったって、シーズンオフには人けもない場所である。しかしお客さんたちが川に下りる道ぐらいあるだろうと思って、どんどん歩き、堰堤をふたつばかり越えたところで、ようやく上がり道を見つけた。
誰もいないキャンプ場を突っ切り、入り口の柱に低く渡された鎖をまたいで林道に出たとたん、またもや鉢合わせしたのである。
向こうも、同時にぼくを見つけたらしく、えらく驚いたような顔だったが、何を思ったか、犬がやるようにふんふんと高鼻を使ったかと思うと、ひょいと二本足立ちになった。このときばかりは、肝を冷やした。
あとになって、クマの二本足立ちは威嚇や攻撃態勢じゃないと知ったのだけど、四足歩行だと案外と小さく見えるツキノワグマが、直立すると、いきなり背が伸びたみたいに巨大に見えるのだ。
しかし、落ち着かず、視線の定まらないその目を見ていると、ははーん、きゃつめはこっちが怖いのだなと思った。だからといって、調子づいて挑発したりしてはならないので、ぼくはきわめて冷静にクマを観察していた。やがて背を丸くしながら、クマがゆっくりと林道の枝道に入っていくと、
「おっしゃー、勝った!」
声に出して叫んでいた(本当はそういうのもよくない)。
◆
こうして渓流で三度、裏山で一度。四回もクマと遭遇すれば、いやでも学ぶことは多い。
まずは、〝相手を挑発しない〟ということ。
ぼくの師匠である富山在住のSさんは、あるとき浅瀬に石を並べて生け簀を作り、尺上のイワナをキープしていたところ、そこにのっそりとクマがやってきたという。それだけなら単なるニアミスですんだかもしれぬ。が、イワナを盗られたくないという妄念(?)からか、よせばいいのにフレックスライトで相手を照らしてしまったらしい。そりゃ、クマだって怒る。
水飛沫を散らして猛然と渡渉してきたそうだ。
彼は無我夢中、一心不乱に逃げに逃げた。崖から飛び降りたはずみに、たいせつなバンブーロッドをへし折り、足に怪我までしたが、さいわい飽きっぽいクマだったためか、ベアアタックだけはまぬがれた。
Sさんは幸運だった。クマに遭ったときにいちばんしてはならないことが、〝相手に背を向けて逃げ出す〟ということだからだ。ぼくが四度の遭遇で無事だったのは、いずれもクマを見て、とっさに逃げ出さなかったおかげだろう。渓流釣りや登山の他、犬のトレーニングで山に毎日のように入るが、必ずクマ鈴を鳴らし、腰にはクマ撃退用スプレーを装備している。
アメリカ製の〈カウンターアソールト〉というこのスプレーは、かなり強力なカプサイシン(唐辛子エキス)を噴射するもので、数メートルから一〇メートル近く飛ぶ。個人が購入するには少々高いし、使用に関しては有効期限もある。しかし、それでも原野に行くときに忘れないのは、これが一種の保険だと思っているからだ。いざというとき、「持ってくればよかった!」と、後悔したくない。
クマは、人間なみに個性豊かな動物で、臆病者もいればヤクザもいるという話を聞いたことがある。そして里に出てきて人を襲ったりするクマは、若くて怖いもの知らず、無鉄砲な性格の個体が多いという。
ことに最近は、人を畏れなくなった〝新世代グマ〟が増えたといわれている。毎年のように山菜獲りや登山者、林業従事者などに被害が出る。
だもんだから、いまだに多くの市町村では、野生動物の中でもクマは基本的に駆除対象となっている。理由は〝危険害獣〟。人的被害を出すまでもなく、クマを見た。里に出た。だから射殺、である。
ぼくが住んでいる地区の区長さんが、自分の家の庭でツキノワグマに襲撃され、半年も入院するほどの大怪我を負った。
ちょうどその頃まで、我が家を中心とした一帯が狩猟の場になっていて、その問題で四苦八苦し、当の区長の理解を得られずに、彼に食ってかかったこともあった。その折りに、こんな事故が起こったもんだから、ぼくとしては本当に複雑な心境だった。
彼の家は集落の中といっても、離れの沢沿いにあって、日常的に庭先に生ゴミを棄てていたようだ。クマという動物は水の流れに沿って下ったり上ったりすることが多いから、何気なしに山から下りてきて、たまたまその生ゴミの臭いを嗅ぎつけてしまったのだろう。
おまけにクマは独占欲の強い動物で、自分の餌場と決めたら通ってくる。ちょうどそこに生ゴミを棄てに出て行った彼とバッタリ鉢合わせをしたもんだから、餌をとられると勘違いし、怒り狂ってかかってきたというわけだ。
クマは元来、臆病な動物だけど、ひとたび「人間という生き物は弱い」と学習したとたん、大胆不敵になる奴がいる。このクマもまさにそうで、事件のあと、昼間から堂々と人家の間をのし歩き、柿の木に登ってたりしたらしい。
当時、地元に流れたローカルの防災無線は、《区長の○○さんが、クマにやられました》という放送だったらしい。それこそ、ヤクザ同士の抗争じゃあるまいに、地元をあげての弔い合戦となりそうだった。
人の弱さを知ったクマは殺すしかない。後日、そのクマは地元猟友会によって〝処分〟された。
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このように〝不幸な人とクマとの遭遇〟は、実は人間の側が誘因を作っている場合が多い。
この人も、庭先にクマ道があることを知らずに生ゴミを撒いていたのだけど、たとえば肥料として耕作地に撒かれたゴミや、未収穫のまま置かれた作物、木に実ったまま放置された果実が、クマを始め、いろんな野生動物を里に居付かせる原因となっている。里とはいえ、ゴミの放置は餌付けと同じ。
つまり人間の無知が、彼らを引き寄せてしまうのである。
多くの人は、クマに対する二種類の両極端なイメージを持っている。ひとつは可愛い、愛くるしい。もうひとつは、怖い、である。
クマはよく見れば、ユーモラスな顔をしているし、仕種も愛くるしい。木の枝に両手両足を預けて、ぐでーんと昼寝をしているところなんか、本当に可愛い。
しかし一方で、やはり怖いとも思う。もちろんイノシシだって怖いし、山中で遭遇して思わず木登りしてやり過ごした経験もあるけど、これがクマとなるとまったく別格だ。問題はクマに対する感覚が、いずれかに偏りすぎた場合だ。
あるとき、地元の消防団の人が所用があると電話でいってきた。
我が家は里からやや離れた山懐にある。だから、どうせ軽トラで登ってくるのだろうと思っていたら、何と真っ赤な消防車が赤ランプを明滅させ、派手にカンカンと警告音を鳴らしながらやってきたのでびっくりした。
訊けば、「ここらにはクマがいるそうなので怖いから」という。
数年前に新聞の購読を始めたとき、小淵沢にある新聞店が、朝刊を我が家まで届けにこられないというから、仕方なく、少し下ったところにあるペンション前に、新聞専用のポストを作ったのだけど、その理由も「配達員がクマに襲われるかもしれない」だった。
思い起こせば、我が家の近くにかつて張られていた〈クマ出没注意〉看板。そこに描かれていた獰猛そうなクマのイラスト、あれはどうみてもツキノワグマではなく、ヒグマか、あるいはグリズリーの顔だった。
おそらく、実際にツキノワグマを見たことがない人が、イメージで描いたのだろうが、そうした無知が世間一般の恐怖を無駄にあおり、我が家の周囲の山には背丈二メートル以上の凶暴なクマがいると本気で信じ込んでいる人が、実は少なくない。
そもそも、〈クマ出没注意〉なんて書かれても、例の路上の〈落石注意〉看板と同じく、何をどうすればいいのかわからない(最近までぼくは、あれを〝ハンドルを巧みに切って、落ちてくる石をひょいひょいと避けろ〟ということだと思っていた)。
だから、我が野生鳥獣保全管理ボランティア〈やえんぼう倶楽部〉としては、軽井沢にあるクマ対策チーム〈ピッキオ〉の看板にならって、とくに許可をとり、「さわがず、走らず、あとずさり」というコピーをメインに、クマと遭遇したときの対処法を箇条書きでわかりやすく書いたものを、あちこちに張ってもらうようにした。
クマはたしかに怖い。しかし、だからといって、ただただ畏れて距離を隔てているだけでは、人はますます動物に対して無知になり、その結果、よけいな災厄を招く。山里に暮らすかぎり、やはり周囲に棲む彼らのことを常識として知っておかねばならない。
ところが、地元の人々はいっこうに野生動物のことを知ろうともせずに、たんに怖いというイメージで遠巻きに見たり、田畑を荒らす〝害獣〟は、皆殺しにして山からいなくなったって、いっこうにかまわないなどという。
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一方で、クマを始めとする野生動物を、人がカリカチュアライズしたイメージで可愛いと溺愛するのも、まったくどうかと思う。
ぼくは大昔から動物を擬人化してきたディズニーのアニメーションなどを、それが如何に名作であろうとも否定してしまう人間なんだけど、まさにバンビ症候群と呼びたくなるような、あの愛護団体って存在が、実のところ疎ましくてならない。
たとえば、動物の棲息圏を調べる目的でテレメトリー発信機の首輪を装着するために、サルを檻で捕獲すれば、〈学術調査用〉と札に明記してあるにもかかわらず、「可哀想だから」と、その檻の扉を開けて逃がしてしまう。
クマの場合だって、「テレメトリーの首輪はクマにプレッシャーだから駄目」、放獣の際、人の怖さを憶えさせるために撃退スプレーを使えば、「唐辛子スプレーは動物虐待」。
だったら、どうすればいいのよ? というと、安易な理想論ばかり返ってきて、まるで具体案がないのは、どこかの国で政策の揚げ足とりばかりに腐心している野党にそっくりだ。そればかりか、クマが里に下りるのは森に餌がなくなったためだと、わざわざ汗水流しては山に入り、里から持参したドングリをせっせと撒いてらっしゃる。
彼らはクマたちを人一倍愛しているかもしれないけど、理解してない──、と思う。野生動物が人から餌を与えられているうちは、それは決して理想的な関係ではないことに、どうして気づかないのだろうか? そもそも自覚、あるいは無自覚にかかわらず、今の害獣問題は人による野生動物の餌付けが原因だというのに──。
ぼくが贔屓にしている翻訳ミステリに、講談社文庫から出ている猟区管理官シリーズ(C・J・ボックス・著/野口百合子・訳)がある。その最新刊である『震える山』に、主人公ジョー・ピケットのこんな印象的な科白があった。
──餌を与えられた熊は死んだ熊。
つまり、里の味を覚えた動物は、いずれは射殺される運命なのだ。
共存──と、一口でいっても、そう簡単になしえるものではない。人はクマを猛獣と呼び、クマは人を畏れ、威嚇、ときには攻撃してくる。だったら、どうすれば、お互いが害をなさずに共に暮らせるのだろうか?
たとえば北海道のヒグマは、明らかに本州のツキノワグマとはまったく別の生物で、その体躯の巨大さもさることながら、まさに猛獣の名にふさわしい存在だと思う(だから、ぼくは、たとえば日高山脈の奥深くなんかでソロテントを張って眠る勇気は、いまもってない)。
それが、いつだったか、テレビで観たこんな場面がとても印象的だった。
北海道のどこかの浜で、網を結っている漁師さんたちのすぐ近くで、大きなヒグマが魚をむしゃむしゃ食べている。つまり、お互いが相手の存在を意識しながら、どこかに見えない線引きみたいなものがあって、そこからそっちには行かないよ、こっちには来ないでねという暗黙のルールが成立しているのである。
結局、人と動物の共存、共生というのは、字義通り、〝共に暮らす〟のではなく、それぞれが無害でいられる適度な〝距離感覚〟を保持するということである。すなわち互いに意識はしても、放置し合う関係を維持するのである。
そしてぼくは思うのだ。
実は、クマたちのほうは、とっくの昔からそのことに気づいているにもかかわらず、人間だけがそれを知らないのではないかと──。
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南アルプス山麓のログハウス発、
大藪賞作家のユーモアと人間味あふれる初エッセイ集!
『フライの雑誌』掲載作品+書き下ろし+インタビューをまとめました。
…ダウンベストをはおり、三和土で靴を履くと、仕事場のドアを開け、外へ出た。すぐ近くにある母屋に向かおうと、暗がりに一歩足を踏み出したところで、硬直した。
玄関先、数メートルと離れていないところに異形の影があった。
牡ジカである。
二メートル近い巨大な体躯。焦げ茶の冬毛が針金みたいに背中にケバ立っていた。太い胴体から凜々しくそそり立った頭部には、それぞれ一メートルぐらいの長さの立派な角が対になって生えていた。
そいつは、ぼくの目の前で躰を横に向けたまま、まるでどこかに展示された剥製か何かのように、 じっと動かずに〝存在〟していた。
一瞬、何の冗談かと思ったほど、そいつには現実感が欠落していた。
右手に握っていたぼくのライトの光を浴びて、ふたつの目が金色にギラリと輝いたかと思うと、牡ジカは真っ黒な鼻の下にある大きな口を開けて、草食動物独特の白い四角い前歯を剥き出した。
口蓋と鼻先から、呼気が真っ白な蒸気となって噴出した。
そして、ビールを飲み過ぎた酔っぱらいが洩らすゲップのような低い声で、ぼくに向かって「ぐふぅ。」と啼いた。…
(「まえがき」より)
『目の前にシカの鼻息 アウトドアエッセイ』
四六判208頁 税込1,800円
フライの雑誌社刊
ISBN978-4-939003-44-8
『約束の地』(2008)で日本冒険小説協会大賞・第12回大藪春彦賞ダブル受賞
樋口明雄 =著 Akio Higuchi
収録作品:
犬と歩む
ようこそ山小屋へ
あのころ奥多摩で
都会のナイフ
薪を割る
サルを待ちながら(NHK「ラジオ深夜便」で朗読)
クマと生きる
〝イセキ〟を渡れ!
インタビュー〈だんだん、自分には山暮らしが合っていると気づいていったんです。〉
犬が好き、猫が好き/犬の叱り方は子どもと同じ/「私の家族を守らなくちゃ」/犬は忘れやすい/私は風呂に入るべきじゃない/肝硬変と阿佐ケ谷と/来たりもんの心得